総研いのちとくらし
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「学術会議問題」をつくり出した「菅義偉首相によるパージ」

「理事長のページ」 研究所ニュース No.72掲載分

中川雄一郎

発行日2020年11月30日


はじめに:菅首相自身の「総合的、俯瞰的な活動」から見えてきたこと

おそらく「いのちとくらし」の会員は十分その意図を認識されていることと思いますが、菅義偉(よしひで)首相は、日本学術会議から推薦された会員候補105人のうち6人の任命を拒否しました。当の菅首相は国会審議で任命拒否の理由を問われて「総合的、俯瞰(ふかん)的な活動を確保する観点から判断した」と述べましたが、これでは「答え」、すなわち、「返答」になっていないと誰もが思ったことでしょう。「6名を除けば何故に総合的、俯瞰的な活動が確保されるのか」を説明できなければ、「返答」にならないからです。このことは中学生でも容易に理解できます。菅首相は、市民にとって社会的に重大な問題であるこの「学術会議問題」を、官房長官時代のあの無意味な「粛々(しゅくしゅく)と……」の言葉よろしく、理由を語らないのと同じ様にして既定通りに扱おうとしたのでしょう。天声人語氏もそう指摘しています(2020・10・13)。私たちも氏の指摘に"成る程"と相槌を打てるでしょうから、少々長くなりますが「天声人語」の全文を記しておきましょう(「ですます」調はここまでです)。

総合的・俯瞰的。菅義偉首相が繰り返すその言葉は、どんな意味を持つのだろう。辞書を引くと、総合は個々別々のものをまとめることで、俯瞰は全体を上から見ること。なるほど木ではなく森を見よ、ということか▼日本学術会議の会員候補から6人を除外したのは「総合的・俯瞰的な活動を確保する観点から」だと首相は説明する。6人はものごとの全体を見る力のない人たちだと言うに等しい。彼らの学問をどう吟味したら、そういう判断になるのか▼おそらくこの政権の言う総合や俯瞰は、辞書にある意味とはかなり違うのだろう。除外された人たちのこれまでの言動を見て、そう思う。例えば行政法が専門の岡田正則・早大教授は沖縄の基地問題で異論を述べてきた▼辺野古埋め立てを強行するため、政府がその当否を「身内」の国交相に審査させようとした時には、「制度の濫用だ」と反対した。自分の学問に基づいてはっきりものを言う。こうした行為が政権には「反総合的・反俯瞰的」と映るのか▼政府にうるさいことを言わないのが総合的であり俯瞰的であるとすれば、独立して政策提言をするという学術会議の役割をはき違えている。俯はうつむく、瞰は見おろすの意味だが、「うつむいて黙れ」と言うかのようだ▼世の中には人をけむに巻く言葉があり、「諸般の事情を勘案して……」などが典型だ。「総合的……」もその類だと首相は考えたのだろうが、けむに巻くどころか、政権の本質をあらわにしている。

任命拒否問題の本質を捉えるために

『世界』12月号(2020.12)が「学術会議任命拒否問題」(以下「任命拒否問題」)を「特集2」として取り上げている。この特集は、「政権の本質をあらわにしている」任命拒否問題の「本質」をどう捉え、思考し、かつ対応するのか、そのための重要な視点・観点を読者に示してくれている。保阪正康・上野千鶴子の両氏による「対談・ファッショの構図を読み解く」と杉田 敦・大沢真理・前川喜平・古川隆久の各氏による「任命拒否問題-わたしはこう考える」がそれである。したがって、私としては、これらの視点・観点を本「理事長のページ」で紹介して、会員の皆さんの思い・考え・行動に資するようにとその内容を構想したのですが、紙幅の都合もあり、保阪・上野対談での保阪氏の最初の言葉「菅政権による『パージ』」――私はこの「パージ」こそ本特集の集約語であると考え、本文のタイトルに組ませて――「理事長のページ」の締めくくりにさせていただいた。

同時に、菅義偉首相が執った違反行為、すなわち、「6人の任命拒否」問題について、片山善博氏が「学術会議会員候補六人の任命拒否事件を診る」(「片山善博の『日本を診る』133)を、また平田オリザ氏が「広がる疑心暗鬼―日本学術会議任命拒否問題」(『但馬日記 第20回』)を同『世界』の連載ページで簡潔かつ明瞭に言及し、この任命拒否問題が内蔵する諸問題を分かり易く説明してくれているので、片山氏の「任命拒否事件を診る」と平田氏の「任命拒否問題」の論点・視点を紹介することで「学術会議任命拒否問題の実態」の露わな側面を見ることができるのではないかと考えたのである。

さらに私は、「任命拒否問題」に関わって出現した「フェイクニュースの実体」に一層の関心を持つようになったので、その要因の一つであろうと日頃考えていた「アベノミクス」にも言及してみた。

1.任命拒否問題とフェイクニュース

このような体裁を取ったのは、任命拒否問題について既にフェイクニュース(fake news、偽造ニュース)が拡散されているからである。その典型的なフェイクニュースはフジテレビの平井文夫上席解説委員のそれである。彼は「学術会議の人たちは、そこで6年働けば学士院に行き、その後皆さんの税金からなる250万円の年金を死ぬまでもらう」とのことを公的な場(編注:太文字は圏点)としての番組で語り、「庶民が日頃感じている不平等感」を動員しようとした。また自民党のそれなりの地位に在る国会議員までもが「学術会議会員が中国の研究チームに参加している」とのフェイクニュースを流しており、それは「反日」(「反日」に反対する)意識を動員するためだと私は思っている。要するに、任命拒否問題に関わって流されたこのようなフェイクニュースの意図するところは、「安倍・菅・自公の政権」を維持するための「反日を許さない」意識と「庶民が日頃感じている不平等感」意識の動員に向けてのそれである、と言ってよい。その点で、任命拒否問題に関わるフェイクニュースは、後者の「不平等感」意識の動員に影響を与えている、と私は思っている。

これまでの日本の経済-社会の状況や最近のコロナ禍での経済-社会の状況の下で自らの「生活と労働」の在り様を他者によって左右されてしまう人びとは、フェイクニュースに目を向けやすくなるのかもしれない。その意味で私は、この「不平等感」の源が少なくとも2000年代初期の郵政民営化を始めとする小泉構造改革と――08年のリーマンショックを経て――2012年に始まり現在に到っている安倍政権・自公政府の「アベノミクス」に基づく「非正規雇用の拡大」をベースにした新自由主義政策にあることを改めて多くの人びとに知らせることが肝要である、と考えている。

2.アベノミクスとフェイクニュース

私はこれまで、本「研究所ニュース」に「アベノミクス」に関わる拙文を2、3書かせていただいた。最初の拙文は2014年9月1日付(No. 47)の「『いわゆる』アベノミクスとは何だろうか」である。それから6年2カ月余の時間が過ぎた。そこでこの機会に――最近ほとんど社会的に話題に上らなくなった感のある――「アベノミクス」に簡潔に言及しておく。というのは、安倍政権を引き継いだ菅政権にとって、コロナ禍に関わる問題と同時にこの「アベノミクス」の展開プロセスとその現況を私たち市民に説明するのは重要な責務であるからだ。すぐ前で触れた任命拒否問題に関わる「不平等感」によるフェイクニュースの出現はアベノミクスと無関係ではないからである。

第2次安倍政権による新自由主義政策の基盤としての「アベノミクス」は「3つの矢」を拡張した形で登場してきた。第1の矢は「金融緩和」である。これは「貨幣量の増加により景気が回復し、物価も上がる」と主張する――新自由主義の生みの親たる――ミルトン・フリードマンの「マネタリズム」である。第2の矢はケインズ主義の「財政政策の機動的採用」である。だが実は、第1の矢と第2の矢は理論的には相対立するのである。すなわち、アベノミクスは「金融緩和だけでは景気回復はままならないので、公共投資によって政府が需要を生み出すことが必要である」とするケインズ主義を採用している。フリードマン派に言わせれば、市場経済は競争で成り立っているのであり、民間企業の競争で生産性を高めていくことで経済発展が実現するのであるから、そこに政府が介入して財政政策を遂行するのであれば、景気は良くならず、財政赤字が増大することになるのだ。結局、第1の矢も第2の矢も上手く的(まと)に当たらないのである。そこで第3の矢である。だが、この第3の矢の「戦略の真意」が大多数の市民にはほとんど理解されないままに地方創生や女性の社会的参加などが試(ため)されたのであるが、その成果がいかなるものなのか、未だに市民にははっきり見えないのである。ただし、ある経済-社会的光景だけは多くの人たちに迫ってきており、したがって見えてくるのである。それは「非正規雇用・非正規労働者の増大とそれに伴う低賃金の固定化」であり、その結果としての「生活と労働の階層化」の広がりである。

かくして、アベノミクスの唯一の「成果」がこの非正規雇用・非正規労働者=低賃金の固定化とその広がりであることに人びとは気づいたのであるが、彼らはその根底としてのアベノミクスを批判するのではなく、知識人や文化人などエリートと思われている人たちに対する「庶民の不平等感と根強い反感」を広げていくのだと私は観ている。フェイクニュースの源はまさに「庶民の持つ不平等感とそれに対する根強い反感」なのである。伊藤昌亮氏はこう述べている(オピニオン「耕論:横行するフェイク」2020年11月12日付朝日新聞朝刊)。

日本学術会議をめぐるフェイクニュースの広がりの根本には、知識人ら文化的エリートに対する庶民の不平等感と根強い反感があります。
20世紀末からの新自由主義の流れの中、大企業が優位となって自営業者は没落し、都会と地方の格差も広がりました。また十分な高等教育を受けられず、非正規で働かざるを得ない人たちもいます。知識人や大手メディアは「上から目線」の特級階級と見なされ、フェイクニュースが彼らを攻撃するための有力な武器となっているのです。

こうした攻撃は右派ポピュリズムに多く、当初は朝日新聞やNHKの番組などに向かいました。今回と共通するのは、上からの政治家(政治権力)の介入について、フェイクニュースで共鳴し合った庶民が下から支え、知識人やメディアを挟み撃ちにするという構図です。

キーワードとなるのは、「反日」と「税金」です。メディアは「反日」と攻撃されました。学術会議にも「中国と軍事協力している」と言うフェイクニュースによる「反日批判」が絶えません。さらに「終身年金がもらえる」「英米の学者団体には税金が投入されていない」といったカネをめぐるフェイクニュースが流布しています。

これは首相交代の反映でしょう。保守イデオロギーが強い安倍晋三氏に比べ、菅義偉首相は、携帯電話料金の値下げのような庶民の懐に訴えるのが得意で、人々はカネの使い道に敏感になっています。自民党などによる「税金の無駄遣い」との学術会議批判が一定の説得力を持つのは、そのためです。(中略)

ファクトチェック(fact check、事実・真実の点検・照合・調査-中川)は、正しい情報を伝えるためには絶対に必要です。しかしフェイクニュースを流す人たちには、まったく通じません。彼らはフェイクニュースを使って、自らの目的を達成できればいいのです。

マスメディアは、ファクトチェックで自らを律するだけでは不十分です。責任あるメディアとして、怪しげな中間メディアを律する仕組みまでも考えるべきでしょう。より長期的には、フェイクニュースが流布する根底にある対立構造や分断の解消に取り組む必要があります(太字は中川)。

社会の根底に存在する「対立構造や分断」の解消に長期的に取り組む

最終段落で示された伊藤氏の指摘は重要である。伊藤氏は、現在の日本の経済制度の、したがってまた社会制度のあり様を変えなければ、フェイクニュースの根底にある「市民同士の対立構造や分断」は解消されない、と指摘している。この経済-社会制度の変革(意識)なしには日本社会の分裂(意識)状態は解消できないだろう、と私も思う。その意味で、私たち「市民」は「対立や分断の構図」を解消する多様な社会運動を組み立てなければならないだろう。

実際、『世界』の特集1「コロナ災害下の貧と困―自助か、連帯か」で分析されている現状は、途轍(とてつ)もなく困難な状況下で生活し労働せざるを得ないそれであると言ってよい(雨宮処凛「コロナ災害のもとのSOS:支援現場からの報告、山家悠紀夫「脆弱化した日本経済:構造改革政策の帰結」、後藤道夫「極貧がつくられる社会と雇用:『貧』から『困』へ」)。例えば、後藤道夫氏はこの論文のイントロダクション後半部でこう述べている。

貧困と生活基盤の脆弱は本当に改善されているのか。もしそうでないとしたら、貧困と生活基盤脆弱の中心問題は何なのか。この小文では、相対的貧困率の改善の要因を検討するとともに、それにもかかわらず、約一割の低所得人口の所得が改善されていないことに注意を向け、労働市場の現状を探る。また紙幅が許す範囲で、「ふつう」の生活が困難な人口が数割の規模で形成されていることの影響を考えたい。社会保障の縮小を除けば、その中心的要因は男性賃金の大幅下落と女性の異常な低賃金の持続である。

このような経済-社会的な状況に置かれた人たちの「生活と労働」の改善をまず以て「自助」で、すなわち、「自分自身の能力で」と言うのであれば、それは本来的に困難であることは明白である。そう言えば、1850年代から80年代の長きにわたってイギリス近代協同組合運動の発展に尽くしたG.J.ホリヨークは「自助」についてこう強調していた:「協同組合は、『自助(self-help)とは他者の福祉を尊重することである』との条件を課している。それ故、自助は、その条件を満たさないのであれば、単なる略奪となってしまう。また自立すること(self-subsisting)とは真実の意識と公正の意識とによって心を動かされる教養ある自己となることである」(G.J. Holyoake, Essentials of Co-operative Education, The Labour Association, 1898)。私は、ホリヨークの言う「自助」と「自立」の真意を認識することで、「自助・共助・公助」はそれらが共に連携し合うことによって「人間的な生活を可能にする社会の豊かさ」を人びとに感じさせ、したがってまた人びとが「自助・共助・公助」を効果的に連携させて「個々人のより良い福祉の成果」を生み出す諸条件を確かなものにすること、これこそが政治の役割であると、ホリヨークと共に強く主張したい。

さて、私がこれまで書き、引用してきた問題や課題は、菅首相によってつくり出された任命拒否問題の実質的な背景を成している諸要因であったが、以下では「任命拒否問題の実態」がいかなるものであるか、その一部を片山善博氏と平田オリザ氏に語ってもらい、そして最後に保阪正康氏に菅義偉首相による「学術会議任命拒否」の本質を極めて簡潔かつ明確に述べていただくことにしよう。

学術会議任命拒否の背後にあるもの

(1)「片山善博の『任命拒否事件を診る』」

この事件から興味深いことをあれこれ窺い知ることができた。まず、菅総理の説明責任能力の欠如ないし説明責任に対する認識が著しく薄いことである。105人の候補を推薦しなかった理由を問われた総理は「(学術会議の)総合的、俯瞰的活動を確保する観点から判断した」と答えるのだが、その意味がわからない。除外した6人を加えるとなぜ「総合的、俯瞰的活動」が確保できなくなるのか、その理由を説明すべきなのに、菅総理は、任命された会員は公務員なのだから「国民に理解される存在であるべきだ」と言うが、言い換えればそれは、6人は「国民に理解される存在ではない」という訳だから、その理由を明確に説明しなければならない。

また総理は「推薦された方をそのまま任命してきた前例を踏襲してよいのか考えた」とも述べているが、学術会議会員の任命方式は前例踏襲によるのではない。「日本学術会議法7条」は、会員は日本学術会議の「推薦に基づき内閣総理大臣が任命する」と規定している。これは「天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する」とする憲法6条の規定と平仄(ひょうそく)が合う(辻褄(つじつま)が合う-中川)。すなわち、たとえ国会で指名された人物が気に入らなくても、天皇は国会の指名どおりに総理を任命しなければならないのと同じように、総理もまた学術会議の推薦どおりに会員を任命しなければならないのである。「任命拒否」は前例を踏襲しなかったのではなく、違法な任命を行ったことを意味しているのである。仮に日本学術会議法が「日本学術会議が推薦した者のうちから内閣総理大臣が任命する」と規定しているのであれば、その認識は間違っていないが、しかし、現行法はそうではないのである。総理は法を勝手に都合よく読み替えることで、6人を除外しているのである。

また菅総理は憲法をも引き合いに出し、6人の除外を正当化しようとしている。憲法15条は「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」と規定している。学術会議の会員は特別職とはいえ公務員であるから、その任命には国民の意思が反映されなければならないが、学術会議の推薦どおりに任命するのでは、国民の意思が反映されないことになる(と、菅総理は憲法を勝手に間違って理解した-中川)。そこで国民の意思を反映させるため、任命に当たっては国民を代表する総理に裁量権があってしかるべきだと、認識した。

この認識は誤りである。そもそも憲法15条の「公務員」とは、権力の座にある公務員のことをいう。その典型例は、総理大臣及び各大臣、それに国会議員たちのことある。この人たちは、国民が選挙を通じてその地位に就けることを憲法は定めているのである。もともと自分たちを律する規定なのに、それを菅総理が学術会議の会員を恣意的に任命する際のこじつけに使っていることには失笑を禁じ得ない。

それでは、学術会議会員の任命に国民の意思はまったく反映されないのかというと、そうではない。学術会議の推薦に基づいて総理が任命するという仕組み自体を、国民の代表である国会が法律で定めているのである。法は、学術会議を誰にするかを、実質的に学術会議会員の自主的な判断に委ねているのであり、それが国民の意思なのである。(以下、略)

(2)平田オリザ氏の「広がる疑心暗鬼-日本学術会議任命拒否問題」

何の巡り合わせか、私は今年たまたま、日本学術会議の新任のメンバーになった。210人の会員の中で修士号さえ持たないのは私くらいのものだろうから、まさに「総合的・俯瞰的な観点」から選ばれたのだろうと思う。文学を除いて芸術系、特に実技系の大学教員がいなかったために、私のような者でも入れておこうということになったのだろう。

学術会議の会員は、学会からの推薦などによって候補リストが作成され、そのなかから選考委員会が新規会員を選定する。巷でいわれているように、退会する会員が自分の欠員を指名するような世襲的制度ではない。これまで芸術系会員がいなかったところに私が会員となったことが、その一つの証左だろう。

*不気味な「任命拒否」

(前略)皆さんよくご存じのように、任命されなかった方々は、それぞれの分野でもトップクラスの学者であり、さまざまな学会の会長や理事を務めていた方もいる。第一部会でも何かの役職についてもおかしくない先生方なので、部会長の選出などをどう進めるかが、まず議論になった。結局めでたく6名が会員に戻られた時点であらためて選挙なりをすることとした。

私は6人の中で加藤陽子さんしか直接には存じ上げないのだが、加藤さんはきわめて温厚な方で、思想的にも30年前なら中道右派位に位置づけられるポジションではないかと思う。著作をお読みの方はお分かりだと思うが、歴史をきちんと公平に扱おうとする正統派的な歴史学者だ。
任命されなかった6人にも思想的に大きな幅があり、逆に、私なども含めて、任命されない可能性のあった研究者も多くいた。会員たちは一様に不気味な感覚を持った。政府の目的の一つが、このような疑心暗鬼や不気味な感覚を学者に持たせることにあったのだとすれば、その意図は十分に発揮できたのだと思う。

おそらく1930年前後に、日本の多くの研究者たちが感じていたであろう不気味な感覚を、私たちも味わった。

*任命拒否がものがたること

インターネット上では「平田オリザのように現政権に批判的な人間も任命されているのだから、現政権に批判的であることを理由に任命をしなかったことにはならない」という、ほとんど論理学の基礎を無視したような議論もあるようだ。たしかに菅首相は、安倍政権に批判的だった人をすべて任命しなかったわけではない。しかし、任命しなかった6名の共通点として安倍政権、安保法制などに批判的だったことは事実である。
そして、この事実が何を意味するかを理解できないのは、歴史を知らないか、あるいは歴史に背を向けているかだろう。強権を振るおうとする者は、過激論者だけを取り締まるのではない。中間層の、どちらかといえば、穏健な人々を、ランダムに拘束する。そして、その理由を示さない。人々を疑心暗鬼にさせることが、もっとも抑圧の費用対効果が高いからだ。

学術会議のメンバーの選定は、純粋に学問的業績によって評価されるべきものだ。それは「総合的・俯瞰的」にもその通りだ。そして、任命されなかった6人は、私と違って、どのような観点から見ても学術会議の名にふさわしい人々だ。もしも、その他の理由で、今回の任命拒否が行われたとすれば(もちろん、その可能性が高いのだけれど)、それは明確な学問の自由への侵害となる。

*フェイクニュースの影響力

(前略)(理髪店にて)問われるままに学術会議の役割について説明した。「それから、テレビとかが言っている高い給料をもらっているとか、年金がつくとか、あれは全部嘘ですからね」と言ったら驚かれた。「え、でも、テレビで言っていましたよ」。「そうなんです。最近はテレビのコメンテーターがツイッターとかで見た嘘の情報を平気で流すんです」「そんなことテレビがしていいんですか?」「間違いだと謝罪や訂正するんですけれどね、それは、ほとんどこっそり謝るだけなんです」。

実際、私の劇団にも「会員の報酬が600万円」(根拠不明)「終身年金が250万円」(日本学士院と取り違えたフェイクニュース)といったデマに端を発した抗議のメールが今でも届く。さらにやっかいなことに、リベラル系の方から「なぜ抗議のために会員をやめないのか!」と言うメールも届く。そんなことをしては政府の思うつぼではないか。

とにかく今は、任命拒否の理由の開示を愚直に求めていくべきだろう。問題はその一点に集約されるのだから。

最後に一つだけ、これはまだ、皆、あまり指摘されていない点だが、このまま欠員の違法状態が続くとして、さらに3年後(任命は3年おき)は、一体どのようになるのだろう。学術会議としては、任命されなかった6名を、再度、推薦することになると思う。任命拒否の理由が開示されない限り、彼らに瑕疵は見つけられないのだから。(後略)

そして最後に、「学術会議任命拒否問題」は「菅政権によるパージ」であると言う保阪氏のイントロダクションを紹介しておこう。

ファッショの構図を読み解く

(3)保阪正康氏の「菅政権による『パージ』」

今回の問題が起きてすぐ、いくつかの新聞社から意見を求められました。記者はみな「これは昭和8年に京都帝国大学で起きた滝川幸辰(ゆきとき)事件とか、美濃部達吉の天皇機関説排撃と重なる思想弾圧の動きではないか」と訊(き)くのですね。否定はしません。しかしそれ以上の動きだという意識をもたないとまずい。ことの本質はパージです。パージとは思想や政治の問題ではなく、基本的な人間の存在に対する否定です。だからもっと深いところから論じなければならない。

日本の明治、大正、昭和にかけての帝国主義政府は巧妙だったということもありますが、最高権力者が前面に出て学者をパージするようなことはなかった。今回はこれほどわかりやすい形で任命拒否をする中に菅義偉(すがよしひで)首相の傲岸(ごうがん)さ、市民意識の欠如、すべてが象徴されていると思います。安倍政権の延長どころか、彼らが作ってきたある種のファシズム的な方向をさらに一歩進める内閣だと。今後私たちの存在そのものにかかわるような問題がパージという形で突き付けられてくると予感しています。アカデミックパージから各分野での異端狩りですね。

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