総研いのちとくらし
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「シチズンシップと地域医療」補遺

「理事長のページ」 研究所ニュース No.31掲載分

中川雄一郎

発行日2010年07月31日


この6月12日に開催された「非営利・協同総合研究所いのちとくらし」の総会で理事長の重責を担うよう仰せつかりました。果たして私がそのような重責を担うに相応しい人間であるか否か、を問われたならば、私自身は「否」と言わざるを得ませんが、それでも本研究所の社会的役割を考えると、消極的ではなく積極的な態度こそが求められるし、またその社会的役割は「受動的なステータス」ではなく、「能動的なステータス」であってはじめて社会的に注目されるだろう、と考えて理事長方をお引き受けした次第です。すべての会員のご協力とご支援を心よりお願い申し上げます。

先般(7月17日)、民医連理事会の前座を務めるよう依頼されましたので、「シチズンシップと地域医療」とのタイトルで1時間ほど話をいたしました。本年1月に新日本出版社より出版された『地域医療再生の力』―本書は『日本の医療はどこへ行く』の第2弾です―で私が「はじめに」を記していることもあり、「地域医療」のアイデンティティについて語るよう求められていると考えて前座を引き受けました。最初にアマルティア・セン教授の「新自由主義批判」や「人間の安全保障」に触れ、次に「シチズンシップ」に言及し、そして最後に市民たる人びとが地域コミュニティに責任を負うことになる「コミュニティ・アイデンティティ」を示唆して話を終えました。しかし、私の話し下手も手伝って、体系立てた話ができませんでしたので、このスペースをお借りして補わせてもらうことにします。

さて、セン教授の「新自由主義批判」と「人間の安全保障」の認識は、私には、彼の「協同のアプローチ」論と一致するように思える。これについては『地域医療再生の力』の「はじめに」で簡潔に論及しているので、参照していただきたいが、ここで次のことに簡単に触れておきたい。すなわち、「協同のアプローチ」は、「福祉を基礎とする社会」を形成するためのアプローチの一つであり、また「人間的な経済と社会にとっての中心的戦略」であって、その戦略を遂行するためには協同組合を含む非営利・協同組織はそれらのメンバーの利益だけを考えるのではなく、社会的平等と公正の確立と普及に貢献し、広く人間的な経済と社会の発展に役立つ運動を展開することが肝要である、というアプローチである。換言すれば、「協同のアプローチ」は、参加に基づく人びとの自治と権利―人権、労働の権利、生存権、教育権など―と自発的責任の行使・履行、そして政治的自由を実現していく社会構成的な機能・役割を意味しているのである。要するに、「協同のアプローチ」はシチズンシップを基礎にして民主主義を確立し、拡大・深化させていく戦略なのである。

またセン教授の言う「人間の安全保障」は「人間の生活を脅かすさまざまな不安を減らし、可能であればそれらを排除することを目的としている」ことから、この「人間の安全保障」は―私が「最後の救い」ではなく、常態としての社会システムでなければならない、と主張する―「教育・保健/医療・住宅」というセイフティ(安全)ネットを社会システムとして確立することと直接結びついている、と私は思っている。

ところで私は、「協同のアプローチ」にしても「人間の安全保障」にしても、あるいは「セイフティ・ネット」にしても、これらは現代における「シチズンシップ」に負うところが大きい、と考えている。かつて私はこのことについて新自由主義批判をベースに概ね次のように論じたことがある。すなわち、

「市場の権利」を「市民権」や「「社会的権利」に優先する権利だと主張する新自由主義者は、結局のところ、税金を基礎とする財政資金に依拠する、貧しい人たちのための所得援助や住宅援助など「所得の再分配」を求める社会的権利は、「経済的自由に制限を加えることになり、国家の権限を強める」だけでなく、「依存の文化」をも社会のなかに蔓延(はびこ)らせてしまい、その結果、「個人のイノヴェーションとイニシアティヴの意識を挫(くじ)いてしまう」と批判する。したがって、新自由主義者は、「経済効率と市民的自由の向上」を規範とする「市場の権利」こそが最も尊重さるべきであり、社会的権利は「市場の力によって決定することができない生活の領分に厳格に限定される」べきだと強調するのである。社会的権利をこのように偏向して位置づける新自由主義者は市民権をもまた犠牲にしようとする。個人の基本的自由と自治(自律性)を守ることを目的とする市民権は、政治的意思決定の潜在的重要性に支えられた政治的権利を伴う、人びとの生活と労働にとって決定的に重要な権利であり、社会的権利と共に存在して相互に補い合う権利である。政治的権利を伴う市民権は、イギリスや北欧における「福祉国家」の生成と発展のプロセスに見られるように、「市場優位論」に対する一つの重要な「異議申し立て」として機能してきたことによって、人びとの間に社会的権利を広げ、向上させるのに大いに貢献してきたのである。その意味で、市民権と社会的権利の拡大と発展は軌を一にしてきたのであり、それ故、社会的権利を弱体化させるものは市民権もまた弱体化させるのである。さらにわれわれは、「自治、平等な権利、自発的責任そして参加」をコアとするシチズンシップが市民権と社会的権利の発展と向上を促進してきたこと、そして逆もまたそうであることを知っているし、またこれら三者がお互いに相補的な関係にあることも認識しているのである。

このように私は、市民権、社会的権利それにシチズンシップの三者の関係を捉えて「市場の権利」を観ることにしているので、新自由主義者がしばしば用いる「経済効率」と「市民的自由」という言葉は「シチズンシップの商品化」である、とみなすことにしている。新自由主義者がどうしても理解できない事実は、「人は必要な資源や資力なしに自らの諸権利を行使できない」ということである。例えば資力のない移民やエスニック・マイノリティの人たちは「自らの社会的権利を薄められてしまうことに無防備であり、また自分たち自身と家族の生活、それに地域コミュニティに大きな責任を負わなければならない、との政府の要請に応じるのには必要な資源や資力を欠いてしまっているのである」。それにもかかわらず、新自由主義者は貧しい彼らや彼女らに「市場の権利」を行使するよう促すのである。新自由主義者は、このような事実をどうしても理解できないがために、実は「権利」ではなく「責任」を重視し、強調しようとするのである。何故なら、新自由主義者は「市場の権利」に起因するすべての結果に対する「自己責任」を擁護しようとするからである。ここでは「権利」と「責任」は完全に対立するのである。それに対して、シチズンシップの「権利と責任」は、決して相対立するものではなく、相補的な関係に、すなわち、「権利の行使」は「責任履行」の能力の向上に、そして逆もまたそうである、という相補的な関係に常にあることを意味しているのである。

こうして、シチズンシップは、市民権と社会的権利の発展と向上を支えることによって、「地域コミュニティに責任を負う」ことの真の意味を人びとに理解させ、認識させることに貢献するのである。地域コミュニティで生活し労働する人びとが「地域コミュニティに責任を負う」ということは、例えば、(1)good community(健全で活気に満ちたコミュニティ)は、(2)public safety(人びとの安全・安心)の意識を促し、(3)strong economy(活発な経済)を生み出し、継続させ、(4)health care(健康管理)の施設やシステムを備え、(5)educational opportunities(教育の機会)を常に用意し、(6)optimum population size(均衡のとれた適切な人口規模と分布)を維持する、という意識を確たるものにしていくことなのである。そしてこの意識がまた「自治、平等な権利、自発的責任そして参加」の価値に基礎を置くシチズンシップの定着を通して「地域コミュニティの意識」(a sense of community)を創り出し、やがてその地域コミュニティの意識が人びとの地域コミュニティへの帰属意識を生み出し、そして同一性と差異性を内包する「地域コミュニティ・アイデンティティ」を育んでいくのである。

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