総研いのちとくらし
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『二木立の医療経済・政策学関連ニューズレター(通巻38号)』(転載)

二木立

発行日2007年10月01日

出所を明示していただければ、御自由に引用・転送していただいて結構ですが、他の雑誌に発表済みの拙論全文を別の雑誌・新聞に転載することを希望される方は、事前に初出誌の編集部と私の許可を求めて下さい。無断引用・転載は固くお断りします。御笑読の上、率直な御感想・御質問・御意見、あるいは皆様がご存知の関連情報をお送りいただければ幸いです。

本「ニューズレター」のすべてのバックナンバーは、いのちとくらし非営利・協同研究所のホームページ上に転載されています:http://www.inhcc.org/jp/research/news/niki/)。


目次


お知らせ:濃沼信夫氏が新著で私の批判した個所(誤り)を全文削除

水野肇・川原丈貴監修『医療経済の羅針盤-医療経済フォーラム・ジャパンの活動記録』(社会保険研究所,2007.7.31)を見ていて、面白い発見をしました。

これには、濃沼信夫氏の報告「医療におけるヒト・モノ・カネを検証する」も収録されているのですが、これが最初に掲載された『社会保険旬報』2251号(10~11頁)には掲載されていた、「OECD調査で日本は17位 国民の評価は低い」との主張が、その根拠とされた2つの表とともに、まるまる削除されていました(同誌1頁分、約1900字)。

私は、拙論「医療満足度の国際比較調査の落とし穴」(『社会保険旬報』2302号本「ニューズレター」29号に再録)で、濃沼氏のこの主張は「健康の自己評価」を「国民の[医療-二木]評価」と取り違えた誤りであることを指摘したところ、濃沼氏から、感情的で的外れな「反論」を受けました。しかも、濃沼氏は、『社会保険旬報』誌に掲載予定だった私の「濃沼論文への回答」(以下、「回答」)を掲載しないよう、弁護士同伴で同誌編集部に直接圧力をかけ、同誌編集部はそれに屈服して、私の「回答」を掲載中止としました(本「ニューズレター」30,31号参照)。

今回の削除は、濃沼氏が自己の以前の主張の誤りを事実上認めたことを意味します。ただし、現時点では、濃沼氏からも、『社会保険旬報』編集部からも、釈明や謝罪の連絡はきていません。なお、『社会保険旬報』に掲載されなかった「回答」は拙新著『医療改革の経済・政策学』(勁草書房,11月刊行予定)に上掲論文の「補注」として収録します。


1.拙論:認知症ケアのビジネスモデルを考える-「コムスン処分」の意味にも触れながら

(『月刊/保険診療』2007年9月号(62巻9号):97-101頁)

高齢者ケア(医療・介護)の対象・モデルは、介護保険制度導入前後で劇的に変わりました。介護保険制度開始前は主な対象は長らく寝たきり老人であり、要介護認定やケアマネジメントの仕組みも、それを前提にして組み立てられました。

しかし、介護保険制度開始後は、認知症高齢者の利用が急増しました。平野隆之氏(日本福祉大学教授)等による全国15保険者の介護保険利用データの詳細な分析によれば、2004年には、認知症者は利用者総数の51.2%、介護保険給付費の73.1%を占めています(1)。しかもこの割合は、そのわずか1年後の2005年にはそれぞれ55.8%、77.2%に増加しています(2)。このことは、現在および今後の高齢者ケアでは認知症ケアが「主流化」することを意味しており、それのケアモデルだけでなく、ビジネスモデルを確立することが不可欠です。

小論では、私の医療・介護保険政策研究と認知症ケアを行っている施設(病院を含む)に対するフィールド調査を元にして、認知症ケアのビジネスモデルを考える上での4つの留意点について問題提起します。その際、全国の介護事業者と利用者に衝撃を与えた「コムスン処分」の意味も考えます。

「在宅重視」の意味の変化を正確に捉える

第1の留意点は、厚生労働省が公式に掲げる「施設から在宅へ」・「在宅重視」の意味の変化を正確に捉えることです。同じ言葉でも、2000年の介護保険制度開始時(前)と2005年の介護保険制度改革後では、意味が相当異なるからです。

介護保険制度開始時には、「在宅」はほとんど自宅を意味していました。当時は、厚生労働省だけでなく、多くの研究者や実践家も、福祉最先進国・北欧諸国の経験がそのまま日本にも当てはまると判断し、「在宅[自宅-二木]ケアに力を入れれば、施設入居者の比率はむしろ低下する可能性がある」と楽観的に考えていました(3)。しかし、彼らは北欧諸国では、在宅ケアだけでなく施設ケアも日本とは桁外れに整備されており、日本と北欧諸国とでは出発点がまったく違うこと、および北欧諸国以外の先進国では、在宅ケア利用率と施設ケア利用率の相関が極めて高いこと、つまり在宅ケア利用率が高い国ほど施設ケア利用率も高いことを見落としていました。そして、現実にも、介護保険開始直後、厚生労働省の思惑とは逆に、要介護者の施設利用・需要は急増しました(4)。

そのために厚生労働省は、2005年の介護保険法改正時に、同じく「在宅重視」と言いながらも、実質的には、「自宅重視」から「居住系サービス(自宅以外の多様な居住の場)重視」へと方針転換しました。この居住系サービスには、介護保険制度開始後急増したケアハウスと有料老人ホームに加えて、グループホーム等の地域密着型サービス(既存サービスを含めて6種類)、さらには高齢者専用賃貸住宅が含まれることになりました。

このことは、厚生労働省が、自宅でのケアが中心となりうる寝たきり老人と異なり、認知症者の自宅でのケアは軽症者を除けばきわめて困難なことをようやく理解したことを示しています。私は、さらに、認知症ケアでは、従来型の施設(老人保健施設、特別養護老人ホーム、療養病床)の役割も依然大きいと考えています。

医療・介護保障制度の公私2階建て化の突破口

第2の留意点は、今後、施設サービスと「居住系サービス」(大半は事実上の小規模施設)が、医療・介護保障制度の公私2階建て化の突破口になることです。私は、2006年に成立した医療制度改革関連法はその前年に成立した介護保険法改正と共に、公的保険の給付範囲と水準(家に例えれば1階)を厳しく抑制しつつ、私費利用部分(同2階)を育成することにより、医療・介護保障制度全体の部分的公私2階建て化を促進すると判断しています(5)。

厚生労働省が医療・社会保障制度を中所得層のニーズにこたえる部分的公私2階建て制度に再編することに初めて着手したのは1994年の診療報酬改定と健康保険制度改革時であり、その6年後の2000年に創設された介護保険制度では居宅サービスの「公私混合介護」が制度化されました(6,7)。しかし、現実には、1990年代以降の日本経済の低迷のため、社会全体で「贅沢サービス」の利用が抑制されたこともあり、医療でも居宅サービスでも、全額自費の「保険外サービス」や「上乗せ・横だしサービス」(経済学的にはこれらは「贅沢サービス」)の利用は極めて低調にとどまりました。

しかし、2005・2006年の医療・介護保険制度改革により、施設と慢性期入院および「居住系サービス」では、ホテルコストと食費が全額利用者負担で、しかも施設側が自由に料金設定できることになり、利用者の支払い能力によって利用できるサービスと施設が異なる「階層消費」が制度化されました。

やや図式化すれば、生活保護受給者と法定負担しか支払えない低所得者は特別養護老人ホームの大部屋を利用する(非生活保護受給者の法定負担を含めた利用者負担総額は、世帯分離をすれば、月額約5万円)、多少の追加的負担を払える中所得者は個室・ユニットケアの特別養護老人ホームまたはグループホームを利用する(同月額10~15万円)、高額の追加料金を払える上所得層は有料老人ホームを利用する(同月額20万円以上)と言えます。ただし、現実には、利用者負担には地域差が大きく、同一地域内でもバラツキが大きいので、これらの金額はあくまで目安です。

私は、このような医療・介護保険制度の公私2階建て化により、低所得者のケアを受ける権利・機会が制限されることを危惧しています。他面、都市部の中・上所得者は負担増と引き替えに、現在よりも良質な医療・介護を享受可能になることも見落とせず、各施設・事業者は、どの所得階層を主たる顧客として想定するかを冷静に考える必要があると思います。

保健・医療・福祉サービスの連携と統合-複合体化の促進

第3の留意点は、認知症ケアにおいても、保健・医療・福祉サービスの切れ目のない提供が求められることです。軽症認知症の場合には、宅老所等の小規模多機能ケアによる「自己完結的ケア」がある程度は可能でしたが、今後急増する重症認知症者や他に身体疾患を有する認知症者のケアでは、保健・医療・福祉サービスの連携と統合が不可欠だからです。

理論的にはサービスの連携と統合には2つの方法があります。1つは、独立した施設・事業者がネットワークを形成すること、もう1つは同一の法人・グループが保健・医療・福祉サービスを一体的に提供すること(保健・医療・福祉複合体化)です。私は、理論的には両者には一長一短があると思っていますが、現実的には、2005・2006年の医療・介護保険制度改革は「複合体」に圧倒的に有利に働くと判断しています(5)。2000年の介護保険制度創設は「複合体」への第1の追い風、2005・2006年の制度改革は第2の「追い風」と言えます。

私は、中等度・重度の認知症ケアでは医療(のバックアップ)が不可欠なため、特に「複合体」が有利であると判断しています。しかも厚生労働省は、最近、「複合体」・医療法人優遇策を次々に導入しています。これは認知症ケアに限定したものではありませんが、厚生労働省は、医療法第5次改正により、本年4月に医療法人による有料老人ホーム開設を認めたのに続いて、本年5月からは、一片の通知により医療法第42条第6号の範囲を拡大し、医療法人による高齢者専用賃貸住宅の開設も可能としました。さらに来年の老人福祉法改正で、医療法人による特別養護老人ホームの開設も可能にする方向を打ち出しています(詳細は未定)。

それだけに、非医療系の認知症ケア施設事業者にとっては、今後は医療施設とのネットワーク形成が死活問題となります。ただし、ネットワークと「複合体」とは対立物ではありません。全国的にみれば、独立した施設・事業者どおしのネットワークですべてのサービスを提供している地域や、「複合体」が独占的にサービス提供している地域はごく一部であり、大半の地域ではネットワークと「複合体」が競争的に共存しているからです(8)。

「コムスン処分」の意味(1)-全国展開のビジネスモデルの破綻

第4の留意点は、本年6月の「コムスン処分」に象徴される、最近の厚生労働省による営利介護事業者に対する規制強化の意味を正確に捉えることです。

「コムスン処分」は、コムスンの各事業所の度重なる不正請求と処分逃れに対して「連座制」の事後規制ルールを適用して、同社の介護事業全体の新規指定・更新を禁じ、結果的に同社を介護保険事業から退場させるという、きわめて強硬なものでした。医療界でも、今までに、徳洲会グループや中央医科グループ等、多くの大手の病院グループが、不正請求を含めたさまざまな処分を受けてきましたが、これほど厳しい処分はありませんでした。『シルバー新報』7月13日号によると、この事後規制ルールは、廃棄物処理法の「暴力団排除」規定を参考にして導入されたそうです。それだけに、「コムスン処分」に端を発する最近の規制強化は、コムスン1社の処分の枠を超えて、広い視野から捉える必要があります。私は、特に次の2つが重要と思います。

1つは、2000年の介護保険制度創設以降、コムスンを先頭に一部の営利企業が押し進めてきた、全国展開のビジネスモデルが破綻したことです。そもそも介護保険市場は、サービス提供者が自由に料金を設定できる純粋な「市場」ではなく、厚生労働省が全国均一の公定料金(介護報酬)を決める「準市場」であり、倫理的にも、経営的にも、極端に高い利益率の追求は許されません。たとえあるサービスで一時的に高利益が得られたとしても、厚生労働省がすぐにそのサービスに的を絞って公定料金を引き下げる「もぐら叩き」をするために長続きしないことは、医療関係者にはよく知られています。しかも、介護サービス(特に居宅サービス)は医療サービス以上に労働集約的であり、「規模の経済」(スケールメリット)が働かないのです。具体的には、売上高人件費率は医療サービスでは5割ですが、居宅サービスでは8割に達しています。

しかし、コムスンは、このような介護サービス(市場)の特性・常識を一切無視して、介護保険開始時に、「非常に高い経営スキル」により、「本社コストの配賦前で30%の営業利益が出る」と判断して、無理な全国展開を行ったのです(9)。ちなみに、介護より多少は「規模の経済」が働く病院医療でも、全国展開を行っているのは徳洲会グループだけであり、大半の病院グループ・「複合体」は1都道府県内で事業展開を行っています。

「コムスン処分」の意味(2)-厚労省の政策の先祖帰り

もう1つのポイントは、2005年の介護保険法改正後、厚生労働省の医療・介護提供政策が、営利企業の育成から伝統的な非営利組織依存へと「先祖帰り」したことです。

厚生労働省は、介護保険制度開始時に、居宅サービスに関しては、営利企業の参入を認めただけでなく、それを大いに奨励しました。これは、医療分野では、厚生労働省が経済財政諮問会議や規制改革・民間開放推進会議の求めた株式会社による医療機関経営の解禁に頑強に反対し続けたことと対照的であり、「論理矛盾」とさえ言えます。私は、厚生労働省が、このような「論理矛盾」を敢えて犯してまでも、営利企業の居宅サービスへの参入を全面的に認めたのは、介護保険制度創設前は、居宅サービスの供給量が絶対的に不足しており、「保険あってサービスなし」という事態が生じる危険があり、それを予防することが至上命令になっていたためと判断しています。

もう1つの隠れた理由として、厚生労働省は、社会福祉法人・社会福祉協議会の旧態依然たる運営・経営に強い不満を持っており、営利企業の参入をそれらの近代化のテコにしようとしたと考えていたことがあげられます。

先述したように、厚生労働省は、介護保険制度を「公私混合」制度として設計しました。厚生労働省は、これにより、全額自費で事業者が自由に料金設定でき「市場メカニズム」が働く2階部分を、営利企業の主たる利潤源にしようと考えた、と私は判断しています(10)。しかし、介護保険制度開始後、厚生労働省の思惑とは逆に、2階部分は大都市部を含めて、ほとんど普及しませんでした。そのために、在宅介護については、大手営利企業も介護報酬(1階部分)のみに依存した経営をせざるを得なくなり、当初期待していた高利益率は幻となってしまいました。

今年になって次々に摘発された、コムスンをはじめとする大手介護事業者の不正請求の背景には、介護報酬の連続的引き下げの下でも、相当高い利益率を追求しなければならない大手企業の宿命があったと言えます。なぜなら株主に対する配当を道義的に義務づけられている大手企業には、非営利組織や中小企業に比べて高い利益率を確保することが至上命令となっているからです。

ちなみに、日医総研の先駆的調査によると、営利企業の訪問介護利用者の1人1か月当たり売り上げ高は他の開設者より約2割高く、しかも不正請求等により指定取り消しを受けた営利企業の出現率は医療法人や社会福祉法人の場合の10倍に達していました(11)。
厚生労働省は、このような(大手)介護企業の行動に不信を強め、一罰百戒的な「コムスン処分」により、今後の介護サービス提供組織の主役は、大手の営利企業ではなく、地域密着型の施設・事業者であることを示した、そしてその中心が上述した「複合体」になる、と私は判断しています。

千田敏之氏(『日経ヘルスケア』前編集長。現『日経メディカル』編集長)も、次のように、率直に「厚労省の本音」を推測しています。「[療養病床の]転換支援措置と、コムスン事件を見ていて、私が思ったのは、厚労省は民間企業に愛想を尽かしたのではないかということです。『医療機関も不正請求や、名義貸しなど悪いことをするが、ここまでひどくはない。だから介護もできる限り医療機関に任せてしまおう。(中略)』。あくまで想像ですが、厚労省の本音は案外こんなものだったのでは」(12)。小山秀夫氏(静岡県立大学教授)も、「介護の主体規制をコントロールしようとすればするほど、介護の分野は医療経営者の草刈り場になる」と述べています(13)。

このように厚生労働省が従来の方針を一転して強硬手段をとれた背景には、介護保険制度開始後参入事業者が急増し、特に訪問介護事業では「市場が伸び悩むなかで、事業所数が増加し、需給緩和が続いている」ことがあげられます(14)。

なお、上述した地域密着型の施設・法人には、社会福祉法人・医療法人を中心とした非営利法人だけでなく、中小規模の営利法人も含まれます。福祉研究者・関係者のなかには、「コムスン問題」を契機にして、営利企業の介護事業への参入自体を禁止すべきと主張している方が少なくありません。しかし、歴史的に営利企業の参入が認められていなかった医療分野と異なり、介護分野では介護保険制度創設以前から、中小規模の営利企業が存在しており、しかもその一部は積極的・先進的役割を果たしていたため、それを排除することは不可能です。

介護報酬の適切な引き上げを

最後に私が強調したいことは、認知症ケアビジネスの健全な発展のためには、介護報酬の適切な引き上げが不可欠なことです。介護報酬は2003年、2006年と2回連続引き下げられたため、特に訪問介護を中心とした居宅サービスでは「適正利潤」を確保することが
困難になっており、ごく一部の例外的な優良事業者(その多くは「複合体」または大規模社会福祉法人)を除いては、優秀で意欲的な介護従事者の確保がきわめて困難になっています。しかし、一般の介護サービス以上に市場が狭く、「勝者一人がち」が不可能な認知症ケアでは、一部の優良事業者だけでなく平均的な事業者が適正利潤を確保できるような介護報酬を設定しない限り、良質なケアを提供するための絶対条件である優秀な人材の確保は不可能です。

この点については、7月26日の社会保障審議会福祉部会において了承された「社会福祉事業に従事する者の確保を図るための措置に関する基本的な指針(改定)」において、人材確保の方策」の第1に「労働環境の整備の推進等」があげられ、その中で、「適切な介護報酬等を設定すること」や「介護福祉士や社会福祉士等の専門性の高い人材を配置した場合の介護報酬等による評価の在り方について検討を行うこと」が規定されたことは、注目に値します。この「指針」を絵に描いた餅」に終わらせないためにも、介護報酬の総枠拡大が不可欠だと私は考えています。

[本稿は、本年7月28日の日本認知症ケア学会特別重点課題講座「新しい時代の認知症ケアビジネス」で行った「基調講演」の一部に加筆したものです]

文献

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2.拙論:厚生労働省が医療費・医師数抑制政策の軌道修正を考え始めた?

(「二木教授の医療時評(その47)」『文化連情報』2007年10月号(356号):36-38頁)

本年7月の参議院選挙前後から、厚生労働省高官が一斉に、従来の厳しい医療費・医師数抑制政策の見直しを示唆する発言をし始めています。以下、まず主な発言を紹介し、次にその意味と背景を考えます。

厚生労働省高官の発言

医療費抑制政策の見直しに初めて触れたのは、保険局の大島一博企画官です(肩書きは発言時。以下同じ)。大島企画官は、6月25日に開かれた医療IT推進協議会のシンポジウムで、IT活用の方向性について講演した時に、日本のGDPに占める総医療費の割合がOECD加盟30か国の中で18位と低い割合になっていることに触れ、「対GDP比で総医療費を高める余地はあると思う。社会保障費について給付の拡大を視野に入れた議論が必要な時期に来ている」と述べました(Medifax 6/26)」。

次に、唐澤剛保険局総務課長は、『社会保険旬報』8月11日号のインタビューで、さらに踏み込んで、次のように述べました(1)。日本は「租税と社会保険料を合わせた国民負担率も先進国では最低の水準です。(中略)[国民皆保険制度が-二木]低い負担でいつまでも成り立つことが当たり前のように考えるのは難しい(中略)。ある程度負担してもらわないと国民皆保険、フリーアクセスは成り立たないことを考えてほしいと思います」。なお、唐澤課長は、『Medical QOL』誌7月号のインタビューでは、「企業は国民皆保険によって大きな恩恵を受けているはずです。アメリカの場合は企業が全額保険料を提供し、それによってよい人材を集める仕組みになっていますが、日本の場合には労使折半です」とも述べ、大企業・健保組合の間で根強い保険料負担過重論を牽制しました(2)。

次に医師の絶対的不足に初めて言及したのは、松谷有希雄医政局長です。松谷局長は、7月28日に開かれた日本医師会主催の男女共同参画フォーラムに出席した時に、医師の絶対数が不足しているかどうかという問題について、「不足だという世論が強くなってきている。今後の厚労省の施策はそういうことを反映していくことになる」と明言しました。このフォーラムでは、当初、松谷局長は「医師の絶対数が足りているかどうかは価値判断の問題。行政的に決めることではない」と述べましたが、司会が「今の医師は不足だ」と追及すると、世論としては「医師を増やせ」、「不足だ」という声が大きいことを認め、それを施策に反映させていく考えを示したそうです(『日本醫事新報』8月4日号20頁)。

さらに唐澤課長は上述した『社会保険旬報』のインタビューで、「医療提供体制の見通し」のトップに「医師不足問題」をあげ、「全国どこでもお医者さんがいない状況で、切実な問題です」と認めました。従来、厚生労働省が医師の偏在は認めるものの、絶対数の不足は頑なに否定してきたことを考えると、両氏の発言は大きな軌道修正と言えます。

軌道修正の意味と背景

ただし、これら高官の発言は断片的であり、これだけで厚生労働省全体の認識・方針が変わったと断定するのは早計かもしれません。しかし私は、複数の局(保険局と医政局)の高官が、相次いで、同じ方向の発言をしたことを考慮すると、最近、厚生労働省の幹部レベルで、医療費・医師数抑制政策の見直し・軌道修正について何らかの合意・確認がなされたと判断しています。ちなみに、厚生労働省高官は2001年3月以降、それまで多用していた「医療(保険)制度抜本改革」という用語の使用をピタリと止めましたが、これはその直前の高官レベルでの非公式の合意・確認を踏まえての軌道修正だったそうです(3)。

実は、厚生労働省は、小泉政権の下でも、2005年9月の郵政選挙前の一時期、社会保障の在り方に関する懇談会等で、経済財政諮問会議民間議員が求めた機械的な医療費抑制政策に正面から反論していました。例えば、2005年2月16日の第6回懇談会では、経済財政諮問会議民間議員の提起した医療給付費伸び率管理制度や、今後の「抑制すべきは公的医療費であり、医療費全体は伸びてもよい。そのために混合診療を解禁せよ」との主張を、根拠に基づいて反駁しました。当時私は、これを「厚生労働省の健闘・『反省』」と評価しました(4)。

しかし、郵政選挙で小泉自民党が圧勝し、小泉首相が政府・与党内で絶対権力を確立してからは、厚生労働省の抵抗は鳴りを潜め、2005年10月に発表した「厚生労働省医療制度構造改革試案」では随所で、経済財政諮問会議に屈服しました(5)。その象徴は、伝統的な「国民医療費」という用語の使用を止め、それに代えて「医療給付費」(国民医療費から患者負担を除いたもの。経済財政諮問会議の「公的医療費」と同義)を用いたことでした。この「試案」が、一段と厳しい医療費抑制策を盛り込んだ医療制度改革関連法(2006年6月成立)につながったことは言うまでもありません。

しかし、2007年になって医療危機・医師不足が社会問題になり、しかも参議院選挙での安倍政権・与党の敗北が確実になってから、厚生労働省もようやく従来の政策の見直し・軌道修正を模索し始め、それが先述した高官の発言につながったと私は理解しています。ちなみに、「医療制度構造改革試案」ではほとんど消滅していた「国民医療費」という用語は、安倍政権になってすぐに復活していました。例えば、昨年12月27日に発足した「医療費の将来見通しに関する検討会」では、はじめから「国民医療費」の将来推計方法が議論され、「医療給付費」はほとんど問題にされませんでした。

もちろん、厚生労働省高官の発言は、従来の厚生労働省の政策に対する「反省」を欠いている点で大いに問題ですし、彼らの傍観者的姿勢も気になります。しかし、それでも、これにより医療改革の「希望の芽」がもう1つ増えたことを見落とすべきではありません。

文献

【7月号「医療時評(その45)」への補注:「地域住民の参加」の目的は国による患者の受診行動の変容!?】

私は、厚生労働省「医療政策の経緯、現状及び今後の課題について」中の「地域住民の参加」を手放しで評価しましたが、現在は、これは甘かったと反省しています。

こう考えるようになったきっかけは、唐澤剛厚生労働省保険局総務課長が、「医療政策の経緯、現状及び今後の課題について」を解説したインタビューで、「限られた医療資源を最大限有効活用できるような行動選択を選択していただく、それが『国民参加型医療改革』」と言い切っているのを、知ったからです(『Medical QOL』2007年7月号:36)。

そこで、改めて厚生労働省文書をよく読むと、地域住民の参加を提起した部分の見出しは、「地域住民の参加及び受診のあり方等についての実効性のある啓発・広報」となっています。この見出しだけだと、地域住民の参加「及び」啓発・広報が並列しているようにも読めますが、本文では、「国においても、地域住民の理解を得て適切な受診行動を普及するなどの地域の取組を促」すと書かれており、啓発・広報のための「地域住民の参加」の意味だと理解できます。しかも、これ以外に、医療における「地域住民の参加」の意義や目的を述べた文章はありません。つまり厚生労働省の言う「地域住民の参加」は、医療費抑制のために同省が2008年度から始めようとしている生活習慣病予防の官製「国民運動」(「健やか生活習慣国民運動」)と同じで、とても素直には評価できません。それにつけても、公式文書のウラを読むのは難しい。

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3.拙論:映画「シッコ」を観てアメリカと日本の医療について考えた

(「二木教授の医療時評(その48)」『文化連情報』2007年10月号(356号):38-40号)

アメリカの映画監督マイケル・ムーアのドキュメンタリー最新作「シッコ」が8月25日から日本でも公開され、さっそく観にいきました。

ムーア監督は、「ボウリング・フォー・コロンバイン」(2002年)で銃社会アメリカを、「華氏911」(2004年)ではブッシュ大統領のイラク戦争政策を、権力者・要人への突撃取材により痛烈に告発しました。しかし、この映画では、前2作のような騒々しさは影を潜め、先進国の中で唯一国民皆保険制度のないアメリカ医療の悲劇を、カナダ、イギリス、フランス、最後にはキューバの無料(または低額負担)医療と対比させながら、じっくりと描き出しています。なお、「シッコ(sicko)」は、病気・病人という意味の俗語ですが、この映画では、「アメリカの医療制度はビョーキだ」という意味でも使われているようです。

この映画の導入は強烈です。まず、無保険者の青年が膝の深い切り傷を自分で縫合するシーン、続いて事故で2本の指を切断してすぐに病院を受診したものの、指1本の縫合手術ごとに100万円以上かかる(中指720万円、薬指140万円)と言われ、泣く泣く1本の治療だけであきらめた別の無保険者が登場します。

しかし、意外なことにここでムーア監督は、この映画の中心テーマは5000万人に達する無保険者ではなく、保険に加入している残り2億5000万人の中流アメリカ人の悲劇であると宣言します(数字は映画のナレーションより。アメリカ国勢調査局の公式統計によると、無保険者は2006年で4699万人)。そして、保険に入っていたにもかかわらず癌治療による高額の自己負担のために破産して家を売らざるをえなくなった老夫婦、救急車を利用する前に保険会社の事前許可を得なかったという理由で保険給付を拒否された患者、ごくありふれた既往歴を申告していなかったとか、実験的治療という理由(口実)で保険給付を拒否された患者が次々と登場します。さらに、このような悲劇を生んでいる民間医療保険会社(特にHMO、マネジドケア)と政治家の強欲ぶりを、内部告発者の議会証言等を交えながら、あぶり出していきます。

私は、無保険者=国民の少数派・低所得者ではなく、保険加入している中所得者=多数派に敢えて焦点を当てたことに、ムーア監督のセンスの良さとしたたかさを感じました。なぜなら、日本やヨーロッパ諸国に比べ低所得者への同情や連帯意識がはるかに希薄なアメリカでは、彼らの悲劇を描くだけでは、国民多数の共感は得られないからです。

続いて、映画は、良質な無料(またはごく低額負担)医療を享受しているカナダ、イギリス、フランスの患者・住民と医師の生の声を、監督得意の突撃インタビューで描いていきます。ここには、アメリカ人を驚かせる「仕掛け」があります。それは、アメリカ人(特に医師)の間では「社会主義医療」と評判の悪いイギリス国営医療(NHS)の一般医がアメリカ的基準でも高所得(年収2000万円以上)を得て、ゆとりある生活を送っていることです。これは、アメリカ人が嫌うフランスについても同じです。

最後に、ム-ア監督は、9・11同時多発テロ後にニューヨーク市でボランティアとして救援活動に参加して有害物質を吸い込み、その後遺症に苦しんでいるにもかかわらず、連邦政府や市当局から医療給付を拒否された患者と共に、船でキューバにあるグアンタナモ米軍基地への進入を図ります。なぜなら、グアンタナモ基地に収容されているテロリスト容疑者には、無料で高水準な医療が提供されていると聞き、テロと闘って傷ついた患者たちには、テロリストと同等の無料医療を受ける権利があると判断したからです。当然のことながら、彼らは門前払いをくいます。そこで窮余の一策として、アメリカの敵国であるキューバに上陸し、アポなしで病院を受診したところ、意外にも無料で適切な医療を受けられるという、いわばハッピーエンドで、映画は終わります。

この映画を観ると、アメリカ国民に医療制度改革のために立ち上がることを呼びかけたムーア監督の熱意がヒシヒシと伝わってきます。実際、この映画が大ヒットして以来、民主党の有力大統領候補はこぞって国民皆保険制度の導入を公約に入れ始めたそうです。ただし、「地獄」のアメリカ医療と「天国」のような他国の医療を対比させる白黒二元論的手法には、違和感も感じました。

なぜ日本は登場しないのか?

この映画を観る前に、友人の医療雑誌編集者から、「仲間と一緒に試写会でこの映画を観た後、なぜ日本は取り上げられなかったか?について議論しました」とメールをいただきました。それに対して、私は、「その理由は簡単です」、と大要以下のように答えました(一部補足)。

<最大の理由は、ムーア監督を含めたアメリカ人は英語でしか考えたり学んだりせず、他国の医療制度と言えば、英語圏(カナダとイギリス)のものしか思いつかず、日本は眼中にないからです。アメリカにこんなジョークがあります。「2か国語がしゃべれる人はバイリンガル、3か国語をしゃべれる人はトライリンガル。では、1カ国語しかしゃべれない人は……アメリカ人」(『「世界一」の医療費抑制政策を見直す時期』勁草書房,1994,179頁)。もちろん、キューバが出てくるのは、ムーア監督が左派だからと思います。

アメリカでも医療問題にある程度理解のある研究者や政治家は、日本の医療費水準が低いにもかかわらず、平均寿命等が長いことは知っていますが、日本の医療の質(特にアメニティ-病室面積や外来待ち時間等)がアメリカ的基準では極めて低いため、対象外になります(この点についての私自身の体験は、上掲書,19-20頁)。>

ただし、映画を観て、第3の理由があることに気づきました。それは、カナダ、イギリス、フランス、そしてキューバでは、国民だけでなく、外国人の患者も無料またはごく低額の負担で良質の医療を受けられるのと異なり、日本の法定患者負担率は3割で、アメリカを含んだ主要先進国(G7)の中でもっとも高く、しかも公的医療保険に加入していない外国人患者は全額自己負担しなければならないからです。

それだけに、日本人(特に医療従事者)は、この映画を観て、「市場原理のアメリカ医療」の末路に溜飲を下げるだけでなく、国際的にみた日本医療の患者負担の異常な高さ(と医療費水準の低さ)にも目を向け、それの改善に立ち上がるのが、ムーア監督の志に応えることになると感じました。

なお、日本の医療関係者の中には、1993年にクリントン大統領が国民皆保険制度の実現を目指したときに、日本の国民皆保険制度を「米国の手本」にしたと主張されている方がいますが、 それはまったくの誤解です。

クリントン政権が国民皆保険法案をまとめるごく初期の段階で、医療費抑制政策に大成功していたわが国の国民皆保険制度に一時注目したのは事実ですが、その後、アメリカ的基準では、日本医療の質はきわめて低いと判断され、改革の選択肢から外されました。そのために、1993年春に当時国民皆保険法案とりまとめの陣頭指揮をとっていたヒラリー夫人がクリントン大統領とともに訪日した際も、日本の病院の視察は行わず、それに代えて、米国本土への帰国途中に、皆保険に近いハワイ州の医療制度を視察したのです(『医療改革と病院』勁草書房,2004,93-94頁)。

ヒラリー上院議員が来年の大統領選挙に勝利して、国民皆保険制度の創設に「再チャレンジ」した場合、このような誤解がぶり返される恐れがあるので、敢えて書きました。


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4.私の好きな名言・警句の紹介(その34)-最近知った名言・警句等

<研究と研究者のあり方>

<その他>

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