総研いのちとくらし
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首相の「言い訳」

「理事長のページ」 研究所ニュース No.55掲載分

中川雄一郎

発行日2016年08月31日


私は、この8月18・19・20日の3日間、心房細動(不整脈)治療のための手術「カテーテル・アブレーション」を受けた。治療や手術の深淵について未だしっかり理解できないでいるだけでなく、病気それ自体について一知半解の悪しき「習い」が今やほとんど「本性」となってしまってもいる私は、そのカテーテル・アブレーションがそれこそホリステックなオペレーションであることを認識できないでいたために――なお更そう思うようになったのかもしれないが――手術後2、3時間を過ぎた頃にこれまで経験したことのない「首と肩の痛み」を覚えた。「何ともはあ(編注太字は圏点、以下同)」である。ある意味で、教えられなくとも解ることなのだが、この病気・治療は、生きとし生けるものにとって最も重要な「心臓」の病であって、しかもその心臓のある部位の2カ所を「擦って焼く」のであるから、前の日の午前中に執刀医の先生が順序・秩序立てて大筋を分かり易く説明してくださった「手術のプロセス」を思い出せば、それはそれで納得が行くはずである。しかし、その時は経験したことのない「痛み」が私を襲っていると思い込んでいたので、「早くこの痛みから解き放たれたい」との思いに「身も心も」占領されていたのだった。

ところで、catheter abrasionであるが、医学専門英語辞典にはおそらく"Catheter Abrasion"のように「専門用語」として記載されているであろうが、私の手持ちの一般的な英和辞典にはcatheterとabrasionは別々に記載され、説明されている。そこで、いつものように、両単語の語源を探ってみた――ラテン語である。羅和辞典に拠って見ていくと、前者はやはりcatheterで英語と変わらず、訳語は「導尿管」、後者はabrasioで、英語とほぼ同じ、訳語は「剥離」・「擦過傷」・「研磨」などと記されている。動詞はabradoで、剃る、擦って傷つける、奪う、失わせるなどである。なお、一言付け加えると、catheterを「カテーテル」と発音するのはラテン語の発音で、英語発音は[kæѲәtər]となっており、またabrasionの英語発音は[əbréiʒən]となっている。

さて、心房細動治療の手術による「痛み」は、この原稿を書いている退院2日目の今は嘘のようにすっかりなくなり、したがって、「痛みからの解放」の思いも笑い話になっている。私と一緒に「手術のプロセス」を聴いていた妻は、「手術による痛みがあるのは当然のことで、しかも、執刀医の先生はその痛みは1日ほどで消えます、と言っていましたよ」と、宣(のたま)って平然としている。妻にしてみれば、私の「痛みからの解放」の思いは、病気について一知半解を性(さが)とする私の「言い訳」にすぎないことだと気づきなさい、との思いであったのだろう。そう考えると、私は眼の遣り場をなくしたように感じて、仕方なく、入院中読むことのできなかった「3日分の新聞」をじっくり読んでいったのである。そして読み終わるや、竹野さんには申し訳ないのですが、「理事長のページ」のタイトルを前に伝えておいた「TPPと経済規制問題」から「首相の『言い訳』」に変更することにした。

[I] 安倍首相の「言い訳」について

先の参議院選挙中のことである。周知のように、安倍晋三首相は、この参院選挙では東北地方など1人区を中心に自民党候補を応援するために、これまでになく多くの地方・地域を回っては経済政策について演説していた。大多数のメディアが認めているように、「憲法改正」問題についてはほとんど触れないか、触れるにしても片言(へんげん)隻句(せっく)の如くであった。しかし、彼は1人区である沖縄県の(現大臣でもあった)自民党候補の応援には出向かなかった。この事実は、新米軍基地建設を日本の市民に向かってではなく、オバマ大統領に臆面もなく約束し、「辺野古問題」を「単なる一つの外交」に格下げするかのような卑屈な態度を取った、あの「対米従属」丸出しの「首相の無責任外交」を如実に物語っている。このことは「言い訳」以前の、「日本の首相」としての彼の人間的次元の問題である、と私には思えるのである。

では、そのような安倍首相は自民党候補の選挙応援演説を通して市民である聴衆に何事を話し、訴えたのだろうか。新聞などで知る限り、彼は自分の経済財政政策を「アベノミクス」と呼びつつ、その「アベノミクスという名の経済財政政策」が依然として「道半ば」であるとひたすら聴衆に訴え、漠然とした政策期待を聴衆に持たせようとしているだけではないか、という印象を私は持った。アベノミクスという名の経済財政政策について聴衆が何より聴き知りたいことは、党派やイデオロギーに関係なく、「なぜ、その政策が道半ばであるのか、あるいは財政再建の日程が大見得を切って約束した時期からなぜ大きくズレ込んでいるのか、したがってまた、その『道半ばとズレ込み』によってわれわれ市民の生活はどうなるのか」ということであろう。しかし彼は、その場にいた聴衆が「自らの疑問」を彼に投げかける機会を与えなかったし、したがって、聴衆もまた何か納得できる回答を安倍首相に求める機会を失してしまった。その代わりに彼らが得た機会は「安倍首相」と握手するそれであった。何というシーンをテレビ局は平気で日本中にバラ撒いたことか。

私はそのような聴衆を悪く言う気はないが、彼・彼女たちが抱えている疑問点は極めて重要な政治的論点であるのだから、聴衆とやり取りしたくないのであればせめて安倍首相は、聴衆が質したいと思っている疑問点に答えるためにテレビや他の媒体による党首討論で他の党首たちと丁々発止と議論・討論し、明確かつ具体的に自分の政策の中身・実体がいかなるものであるかを説明する「言い訳」を堂々とすればよいのである。彼の政策とその説明は、彼が国民に示した通り理に適っているか否か、また政策目標の達成をどこまで示しているのか、それともそれは失敗であるのか否かの判断は聴衆である市民一人ひとりが首相の「言い訳」を聴いて決めるのである。要するに、「国民主権」を市民一人ひとりが具体的に認識する重要な機会である選挙時であればこそ、安倍首相は、単なる「アベノミクスは道半ば」の繰り返しではなく、その「道半ば」は「一体いかなる意味で道半ばなのか」を、個々の市民一人ひとりが自らの「労働と生活」の次元において明確かつ具体的に判断できるよう「言い訳」しなければならないのである。なぜなら、彼と黒田日銀総裁の肝煎りの「異次元の金融緩和策」の失敗が明らかになりつつあるし、したがってまた、彼の「道半ば」の「言い訳」が今やますます内閣総理大臣としての彼の本務になってきているからである。にもかかわらず、安倍首相は、「道半ば」があたかも彼の経済財政政策の「枕詞(まくらことば)」であるかのように聴衆に思わせて、「アベノミクス」が依然として「道半ばである」かのように時間を引き延ばしているのだと、私には思えるのである。

彼はただ単に「自民党の総裁」として首相を務めているのではない。彼は国会で選出された日本国の「内閣総理大臣」として首相を務めているのである。それ故、彼は「行政権を行使する」責任者としての対価――卑近な言葉づかいで失礼かもしれないが、内閣総理大臣としての「全人的な労働の対価」――をも包含する、市民一人ひとりに対する政治的責任を果たすべき重大な「義務」を常に伴う本務を遂行しなければならないのである。

ということで、私が再三言ってきたように、彼はもうこの辺で「道半ば」という言葉の中身・実体を「言い訳」しなければならない。そうであれば、「道半ば」という言葉の一人歩きはもう由無いものだ、と彼は観念しなければならない。因みに、国語辞典は、「言い訳」とは「自分の失敗・過失などについて、その理由を述べ、自分の正当性を主張すること」(西尾実他編『岩波国語辞典』第六版・横組版、岩波書店、2000年)、あるいは「自分のした失敗・過失などについて、そうならざるを得なかった事情を客観的に説明して、相手の了解を得ようとすること」(金田一京助他『新明解国語辞典』第五版、三省堂、1999年)である、と解説している。そうであれば、安倍首相は、経済財政政策が「道半ば」にならざるを得なかった理由、事情を客観的に説明し、自らの正当性を主張し、市民の了解を得るよう心底努力しなければならないのである。

[II] 経済財政試算について

8月20日付の朝日新聞朝刊に「経済財政試算『期待』頼みにあきれる」と題した社説が掲載された。その内容を批判的に要約しつつ追究すると、次のようになる:政府は、最新の試算について、昨年10月に延期された「10%への消費増税」を織り込んで歳出が一定のペースで増えていくと仮定しても、2015年度に国・地方合計で「15.8兆円の赤字」であった「基礎的財政収支(PB)」が2020年度には5.5兆円の赤字に減少する、との試算を発表した。政府はこれまでこの「15.8兆円の赤字」を「2020年度に黒字にする」との目標を掲げ、国際会議でもこの目標を「再三強調した」。5年間で赤字が約10兆円も減少するならば、「もうひと踏ん張りではないか」と考える人がいるかもしれない、と社説氏は言う。安倍首相の狙いは、社説氏の言う通り、「みなさん、経済財政改革は道半ばですので、私を信じて、成果が上がるまでアベノミクスを見守りかつご支援ください」、これである。

しかしながら、「現実は甘くない」。彼の「見守りと支援」のお願いにもかかわらず、この試算は「歳出と歳入の両面で甘すぎる」と見破られてしまっている。歳出について言えば、物価上昇率と高齢化に伴う社会保障費の増加を含めて勘案して数字を弾いているが、一方で「社会保障費の歳出抑制」の効果を見込み、他方で「どの制度をどう見直すのか、国民に痛みを強いることになる改革の具体的な内容は手つかずのまま」(傍点[編:太字]は中川)である、と社説氏は論じる。社説氏がここで論じている内容は一見筋が通っているように思えるかもしれない。しかし、社説氏は相手の罠に掛かってしまっている。「国民に痛みを強いる改革の具体的な内容は手つかずのまま」は安倍政権の「戦法」というか「立派な手法」であって、市民が嫌悪し批判する「具体的な内容」は、すべてではないが朝日新聞も含めた全国紙などの社説氏に「あれもこれもと言わせて」市民を何と無く納得させ、機を見て決定するのである。小泉政権もそうであったし、安倍政権は小泉政権よりもっと露骨にそうしているではないか。社説氏は、少なくとも「法人税、大企業の留保金、所得税、消費税、制度資金、軍事費、社会保障費、雇用制度」などのあり方・仕様の改善それに見直しを主張すべきである。

次に、歳入について社説氏はどう論じているのか。少々問題である:「歳入についてはさらに問題が大きい。税収は所得税や法人税を中心に経済成長に左右されるが、毎年度の成長率は実質で2%以上、物価変動を加味した名目では3%以上になることを試算の前提としている。しかし、足元の13~15年度の実質成長率の平均も、経済の実力である潜在成長率についての政府の見立ても、ともに0%台にとどまる。その分だけ税収がかさ上げされ、PB赤字は縮む計算になる」。この引用センテンスの部分について私に言わせれば、安倍政権は「分かって遣っている」のである。そうであるから、今さら驚くことではない。「トリクル・ダウン(trickle-down)論」がそれである。

トリクル・ダウン論が安倍政権の経済財政政策の基礎を成していることは、政権発足時からジャーナリズムは承知していたはずである。トリクル・ダウン論は、簡単に言えば、「政府資金を大企業に流入し、その結果、生産される利潤(利益)が中小企業や労働者・消費者に滴(したた)り及んで、景気を刺激する効果を生み出す」とするサプライサイドの経済理論である。しかし、この理論による「トリクル・ダウン効果」については実証されたことがない。にもかかわらず、安倍政権は「トリクル・ダウン効果」を期待し、一方で日銀が大量の国債をメガバンクから買い上げて支払った大量の札束を金融市場に流し込むことで(これは本来、日銀がやってはならない「禁じ手」である)大企業の設備投資を促し、他方で大企業向け大幅減税による利益(利潤)の安定化を確かなものにしていけば、大企業の利益拡大が図られ、かくして、大企業の利益の一部が中小企業や労働者(消費者)に滴り落ち、消費が活発化し、経済成長が実現するのだと勝手に思い込み、実施してしまった。そのために安倍首相と黒田総裁は、「異次元の金融緩和策」の結果(outcome)を多くの人びとに見てもらい、拍手喝采してもらうことを夢見て、大企業への政府資金の流入と(大企業向け)法人税の大幅な引き下げの他に、株高・円安の政策、原発輸出と(国内の)原発再開、武器輸出など「相場の引上げ」と見紛う「人為的な政策」を連発してきたのである。しかしながら、「そうは問屋が卸さなかった」のである。Outcomeは、英語辞典には、「注目される事がらの最終的な結果、結論、成り行き」・「予想が難しい場合に用いられる」と記載されており、It was not the outcome that many people had hoped for.の例文が載っている。

それはさておき、もしこのままこのような「人為的な政策」が継続されるとすれば、日本はそう遠くない時期に、現在のアメリカ合衆国がそうであるように、「軍需産業」の繁栄と「平和産業」の弱体化という状態が露わになるであろう。言い換えれば、現在の日本の平和産業のコアである中小企業が先ず弱体化し、そこからやがて現在の日本の基本産業である「平和産業」全体の弱体化が進行していくだろう、と私は観ている。市場メカニズム論に倣って言えば、軍需産業の真のそして究極の需要(消費)は「軍事的紛争や戦争」であり、またその真のそして究極の供給(生産)もやはり「軍事的紛争や戦争」である。そうであれば、われわれは、今やグローバリゼーションによってますます小惑星になっていく地球に「軍事的紛争や戦争」が発生しない、貧困のない適切で健全な経済的、社会的、文化的、そして政治的な環境を創り出すことによって「軍需」と軍需産業を消失させ、平和産業が経済的、社会的、文化的、そして政治的なイニシアティヴを発揮する環境を創り出さなければならない。

自公・安倍政権によるトリクル・ダウン論に基づいた経済財政政策を見ていると、今述べたような私の社会デザインは到底日の目を見ないだろう。日経連が安倍政権に「武器輸出三原則の変更」を強く迫り、安倍政権が即座にそれに応えたように、安倍政権のトリクル・ダウン論の危うさを多くの社説氏には至る所で市民に知らせてもらいたいものである。「人間のために経済が在るのであって、経済のために人間が在るのではない」。このことを常に胸に抱いて社説氏に論じてもらいた、と私は願うものである。

最後にもう一つ、社説氏の主張を簡潔に観てみよう。社説氏は次のように述べている:「成長率を高めて税収を増やす努力は財政再建に必要だ。一方で、歳出を不断に見直し、少しでも抑制・削減していくことも欠かせない。高めの成長と税収増への期待によりかかり、歳出の見直しに及び腰。そんな姿勢で『20年度のPB黒字化という財政再建目標を堅持する』と言い続けても、説得力は生まれない」。社説氏この主張をどう考えるか。氏の主張は、私をして、すぐ前で述べた「人間と経済の関係」を再び社説氏に書き送る行動を起こさせるだけである。私には、社説氏は基本的にどうも「アベノミクスの味方」であるように思えるが、多少異なるところを指摘すれば、「経済成長よりもむしろ歳出抑制に力を入れよ」論である、ということだろう。世界は漸次的であれ、すでに「アベノミクス的理論」を捨てて、事業体(企業)の競争支配的フレームワークではなく、それに取って代わる事業体の「オールターナティヴ・フレームワーク(もう一つの別の経済-社会的枠組み)」に基礎を置く「連帯経済」を目指して動き始めている。したがって、世界のジャーナリズムも、より健全なコミュニティや社会はどのような「経済社会アイデンティティ」の基でオールターナティヴ・フレームワークを創り出していくのか、追究し始めている。朝日新聞をはじめ日本のジャーナリズムにも、世界の近・現代史を「再履修」して、日本における「新たな経済社会アイデンティティ」を是非追い求めてもらいたいものである。もちろん、私も「再履修」しつつ、「人間のために経済が在るのであって、経済のために人間が在るのではない」、このことを明確にする経済と政治、したがって、社会を追究していきたい。

[III] 「異次元の緩和策と経済財政策」問題について

ところで私は、以前、本研究所の「研究所ニュース」(No.47)の「理事長のページ」で「『いわゆる』アベノミクスとは何だろうか」と題する拙文を書いたので、上の[II]を多少補足するために、アベノミクスの「異次元の金融政策」についてここで言及しておく。しかし、その前に、カテーテル・アブレーション手術を終えて退院した8月20付朝日新聞朝刊の「経済気象台」欄に要領を得た興味深い「異次元緩和どう検証」と題する短文が掲載されていたので、要約して紹介しておきたい。これは私には、日銀の「異次元の緩和策」への疑問を明らかにしてくれる、専門的で実に意味のある批判である。

日銀は次回9月の金融政策決定会合で、異次元の総括的な検証を行うという。日銀は、物価目標と実績の隔たり大きいのに、「金利面で効果は出ている」の一点張りで、正直言って、戸惑うばかりである。そこで、検証を実りあるものにするため、いくつかの点について明らかにしてもらいたい。
まず、緩和の波及経路と定量的な効果の検証であるが、日銀の執行部は3年前の就任時に、最大の使命は物価安定目標の早期達成に尽きるとして、「2年で2%程度」とする目標を掲げた。しかし、足元の消費者物価指数(生鮮食品を除く、2015年基準)の前年比上昇率は就任時とほぼ同じマイナス0.4%で、目標に照らせば、成果があったとは言えない。日銀は、原油価格の下落を理由にあげているが、しかし、日銀が依拠してきた理論は、大胆な資金供給が人びとのインフレ心理を駆り立てるというものだった。今さら個別品目のせいにするのは、元々の理屈との整合性を欠く。

また、副作用の点検が不可欠であるのに、このままでは、日銀は新規発行国債の約2倍に相当する額の国債を、5年近くも買い続けることになる。日銀が国債を直接引き受ける「財政ファイナンスでない」と主張したところで、消費税率の再引き上げは先送りされ、財政規律は緩み続けている。金融緩和の責任は重い。
さらに、出口戦略も明示すべきである。巨額の国債購入が続くのは、来たるべき出口を見据え、金融政策の「できる」・「できない」範囲の線引きをしてこなかったからである。日銀には、その気はなさそうだが、(物価引き上げ)2%目標そのものの適否もこの際、議論すべきである。

私もこの意見に大方賛成である。「異次元の金融緩和策」の目標は、平易に言えば、「物価を2%引き上げること」であり、そのために安倍首相と黒田総裁はメガバンクから大量の国債を買い上げ、そこに落とされた「代金」を金融市場に流して、先ずは大企業がメガバンクから融資を受けて設備投資に費やすのだとする金融政策を目論んだのだが、これがうまくいかなかった。「設備投資は大企業の事業を活発にし、生産を増大させ、その結果、賃金を上昇させ、需要を増やし、大企業の利益を増大させる(例の「トリクル・ダウン論」)……と行くはずだったが、彼らの筋書き通りにいかなかった。何故か、それは、日銀がメガバンクなどの金融機関から年額50兆円もの長期国債を買い増したことから、金融機関は国債保有を大幅に減少させ、それに応じて国債の買い手も減少し、その結果、国債は値下がり、一時的であれ金利が上昇し、国の借金が増大してしまったからである。

安倍政権の「異次元の金融緩和策」はかくして「道半ば」となったのであるが、何しろ日銀がその責任を背負っているので、流石の安倍首相も「道半ば」と叫んでいればそれで済む、何とかなる、という訳にはいかなくなった。ひょっとすると、「トリクル・ダウン論」に最も驚きかつ怒っているのは安倍晋三その人かもしれない。何かよい「言い訳」がないものかと初めて真剣に「トリクル・ダウン論」と向き合っているかもしれない。しかし、だからと言って、「トリクル・アップ」に乗り換えてはならない。「資金や利益が貧しき人(国)から豊かな人(国)へ流入する」ことを意味する「トリクル・アップ」は、人間性を喪失した経済であるからだ。

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