総研いのちとくらし
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戦いすんで日が暮れて

「理事長のページ」 研究所ニュース No.52掲載分

中川雄一郎

発行日2015年11月30日


1969年の直木賞受賞作品が佐藤愛子の『戦いすんで日が暮れて』であったことを私と同年代の人たちはひょっとすると今でも覚えているかもしれない。というのは、その作品の筋(ストーリィライン)はともかく、「戦いすんで日が暮れて」という題名(タイトル)が1970年代に若いサラリーマンや学生の間で流行り、しかも作品の筋とは関係なく「独り歩き」していたからである。おそらく、当時の若者たちは、「戦いすんで日が暮れて」という言葉を、例えば職場での自分たちの労働や仕事や人間関係に引きつけて、また(学生たちは)ゼミナールでの発表や講義のレポート提出のために徹夜で学習したことに、あるいはまたサークル活動、自治会活動、学生運動の厳しさに引きつけて、自分たちが置かれた状況や環境の下での日々の生活を「戦いすんで日が暮れて」という言葉で言い表していたのだろう、と思われる。

私は1969年3月に「無事」大学を卒業し、大学院を経て1975年に「専任助手」として明治大学に就職したのであるが、院生時代も助手時代も「戦いすんで日が暮れて」の言葉が「独り歩き」していたことを覚えているし、私もその言葉をしばしば口にしていたことを思い出す。

『戦いすんで日が暮れて』は、1974年12月に講談社から文庫本として出版されたので、それ以前よりも多くの人たちに読まれるようになっただろうし、したがって、「戦いすんで日が暮れて」の言葉もより多くの人たちの間を「独り歩きする」ようになったことだろう、と私は思っている。作者の佐藤愛子は「戦いすんで日が暮れて」についてその「文庫版あとがき」でこう書いている。

「戦いすんで日が暮れて」は私の実際の経験をもとにして書いた小説である。これを書く約半年前に私の夫は事業に失敗して、我が家は破産した。

破産の日から私をとり巻く現実は一変した。何よりも一変したのは人間である。人はみな、生きつづけるために自分を変えるのである。意識するとしないにかかわらず変化する。

(中略)

私は倒産を舞台とする人間劇を大傑作に仕立て上げる意気に燃えていたので、たった五十枚という限られた枚数でこの貴重な経験を軽く書くことに抵抗を覚えた。

しかし私は金がほしかった。

そうして私は金がほしいという誘惑に負けて、不本意な「戦いすんで日が暮れて」を書いた。

五十枚の枚数であるから、軽く書いておこう。やがて時が来たならば、もう一度書けばいい、そう自らを慰めて私は書いた。それが思いもかけず、翌年、受賞したのである。

今、「戦いすんで日が暮れて」を読んでみると、軽く書いたつもりの五十枚の中に、凝縮されたものがあるのを感じる。三百枚の倒産人間劇を書くのも、五十枚のユーモア小説も同じであったような気が、今はしている。

佐藤愛子の「戦いすんで日が暮れて」の本意は、夫が経営する会社の倒産を機に「人はみな、生きつづけるために自分を変えるのである。意識するとしないにかかわらず変化する」という経験――それは「実に見事に変身する」生身の人間の欲求の経験――と、「軽く書いたつもりの五十枚の中に、凝縮されたものがあるのを感じる」という経験――生身の人間の冷静な「自己意識」の経験――を生き活きと、そしてある程度「有りのままに」表現したもの、と私はそう思った。言い換えれば、作者の佐藤愛子は、「生きつづけるために自分を変える」人間としての「他者」をではなく、「変化する自分」を意識している「意識」を通じて、具体的な人間存在である「われわれ」を見ているのである。それ故、「戦いすんで日が暮れて」の言葉が多くの人たち、とりわけ当時の若い人たちの間を「独り歩き」したことはもっともなことだ、と「今の私」は自分自身の「戦いすんで日が暮れて」を勝手に正当化しているのである。

佐藤愛子の有名な、彼女自身の経験に基づいた「自己意識の表現」である「戦いすんで日が暮れて」をこの理事長のページで自分勝手に解説したのは、今年の3月から10月にかけて経験した「3つの病」の手術・治療から回復までのプロセスが何やら「戦いすんで日が暮れて」の「独り歩き」に似ていると想えるので、書き記しておこうと考えたからである。

さて、私にとって今年(2015年)は「忘れることのできない年」になるだろう。今年も残すところおよそ1カ月、「私の身体の何処かを手術することはもうなかろう」と思いつつ、私は先月(10月)26日に受けた「鼠径(そけい)手術」の――4~5センチほどの――跡をズボンの上から摩りながらこのページに「戦いすんで日が暮れて」の想いを書き記している。

私は、今年の3月31日に前立腺癌の手術を受け、「前立腺全体」と「リンパ腺」を摘出、およそ3週間入院した。それでも、退院後のリハビリテーションに精を出したこともあって、思っていたよりも回復は早かったものの、大事を取って、授業開始を4月28日の専門職大学院ガバナンス研究科での「社会的企業論」講義から、翌29日の前期(春学期)集中「協同組合学」講義、そして30日の3年生および4年生ゼミナール、さらに5月1日の政治経済学研究科での「協同組合論」講義の順で開始することにした。

とりわけ、新3年生ゼミナール員にとっては、私との事実上の「初顔合わせ」であることから、いかにも「緊張感溢れる」顔合わせのようであった。しかし、私にとっては、「恒例のセレモニー」なので、ゼミ教室での彼・彼女たちとの「初顔合わせ」は大変楽しい時間である。それでも、4月10日の授業開始から3週目のゼミナールになると彼・彼女たちの緊張感も多少和らいでおり、ゼミナールでの各人の担当や外書講読と協同組合学に取り組む姿勢もそれなりに出来上がっていたように感じ取れ、私自身も“ホット”した次第である。彼らは「2年次とは違う」という雰囲気を協力し合って創り出しているように私には思えた。今年の「3年生ゼミナール員」は私の「最後のゼミナール員」、そう言ってよいならば、「特別な存在」なのである。したがって、私としてもそれなりの「自覚」を以って彼らに臨まなければ、と再認識した次第である。

こうして私は、2つの大学院の講義と学部の講義の遅れ、それにゼミナール(演習)の遅れを取り戻すべく「補講」を行い、無事、夏季休暇を迎えることになった。しかし、実は、私にとっても、そして3年生ゼミナール員にとっても、この夏季休暇が最も多忙な時期なのである。毎年行っている夏季休暇中の――実態調査を含めた――調査・学習がこの多忙さをつくり出すのである。だがまた、この多忙こそが、わが3年生ゼミナール員の面目を躍如とさせるのである。

閑話休題。9月8日の午後10時頃から私はこれまで経験したことのない「痛み」を覚えた。午前12時を過ぎた頃にはその痛みは一層激しくなり、やがて痛みに耐えきれずに午前1時半頃に仕方なく「救急車」をお願いし、病院で応急処置をしていただいた。お蔭で痛みはほとんど遠のいた。この痛みの原因は「尿管結石」であった。

翌10日は、夏季休暇中に毎年開催されている、関西大学・杉本貴志先生のゼミナールと私のゼミナールの3年生ゼミナール員による「研究交流会」であった。私は、この交流会を“何が何でも”休むわけにはいかないのである。両ゼミナール員にとって、この研究交流会は1つの重要な「協同組合研究」の目標なのである。彼らは、自発的に組み立てた「自主ゼミナール」(サブゼミナール)の計画を実行し、夏季休暇を利用して現地を訪問・調査し、そうして得られた資料・文献などを駆使して作成した「汗の結晶」である「論文」(本ゼミナールの今年のタイトルは「地域再生と農業協同組合:JA甘楽富岡の事例を通して」)の発表を“心密かに”楽しみにしているのである(このことについては、本研究所の[研究所ニュース No.51. 2015.8.31.]「発想の転換」を参照してください)。

それに加えて、私にはもう1つの容易には休めない夏季休暇中の仕事があった。全国森林組合連合会による「監査士試験」有資格者のための「協同組合論」講義である。今年は、9月11日午後1時半から5時半までの4時間、講義をほぼ立って行った。会場は明治大学中野キャンパスの(ガラス張りの)新校舎3階の100席ほどの教室である。講義のタイトルは、2014年5月に家の光協会から出版された『協同組合は「未来の創造者」になれるか』と同じタイトルにさせてもらった。聴講者は真剣そのものである。教壇に立って全体を眺めると、女性の聴講者が年々増えていることが分かる。この傾向は森林組合にとって大いに結構なことである。長い間「男の仕事場」と思われてきた森林組合でさえも様変わりする時期がやって来るのだ、という前触れかもしれない。そう言えば、昨年のわが3年生(現4年生)ゼミナール員が訪問・調査した長野市森林組合北部支所では、大学の林業科を卒業した20歳代前半の若い女性――彼女は空手有段者である――が40歳代や50歳代の男性と一緒に新式の重機を操作して杉の伐採作業を堂々と行っていたことが思い出される。

杉本ゼミナールとの「協同組合研究交流会」と全森連の「協同組合論」講義を済ませた私は9月14日に入院し、翌15日に尿管結石の手術を受けた。結石の大きさが「14ミリ」であったことから――何と説明してよいか分からないが――手術は内視鏡による結石の「爆破」であった。1週間ほどの入院であったが、最終的にチューブが外されたのが10月9日なので、完治するまで1カ月弱の時間を要したことになる。この時も私は、あの「戦いすんで日が暮れて」の気持ちになった。

前立腺癌の手術を終えて無事退院を迎えた4月16日の午前中に院長先生をはじめ3名の先生方が病室にやって来て、院長先生が「この手術は鼠径(そけい)ヘルニアを引き起こし易いよ」と伝えてくれたことを私は今さらながら思い出すのであるが、残念と言うべきか、それが現実になり、私は同じ病院で入院を三度繰り返したのである。

10月25日に入院し、翌26日に鼠径ヘルニアの手術を受けた私は、29日に退院することができたものの、結局、退院後13日間はほぼ家のなかで過ごすことになってしまった。何故かといえば、執刀された先生が退院時に「鼠径ヘルニアよりも腹壁が脆弱化しているので、抜糸(11月4日)後でさえなお気をつけなければならない」と妻に言い渡したからである。そして妻は先生の注意を忠実に守り、私を外に出さないようにした。その甲斐あってか、私は回復し、授業にさほどの支障を来たさずに復帰することができたのである。思えば、退院後のこの「13日間」は、私が参加したかった本研究所の「イギリスの医療社会サービスにおける非営利・協同事業の役割調査」の日取りとほぼ重なっていたのである。

今年は「思いもよらぬ病」と言うべきか、「想像もしなかった病」と言うべきか、「3つの病」に罹ってしまい、私はその都度独り病室のベッドの上で「戦いすんで日が暮れて」を繰り返していたのであるが、しかし、夫が事業に失敗し、家が破産してしまったことから「人間の欲心」を観てしまった経験を綴った佐藤愛子の「戦いすんで日が暮れて」とはそれこそまったく違う、私が「『独り歩き』した『戦いすんで日が暮れて』」と形容した「戦いすんで日が暮れて」を繰り返していたのは、本当は、私ではなく妻の方であったのかもしれない、と私は思うようになった。妻は、私が「病膏肓(こうこう)に入る」ように決してならないようひたすら願って「戦いすんで日が暮れて」を繰り返していたのである。その証拠に彼女は、私が罹った「病」についての書籍を買い込んでは、夜遅くまで布団の上で読んでいたのである。

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