総研いのちとくらし
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はじめに行為ありき

「理事長のページ」 研究所ニュース No.43掲載分

中川雄一郎

発行日2013年08月31日


今年の4月中葉に、大阪府保険医協会が発行している月刊誌『大阪保険医雑誌』の編集部から、「医院経営と協同組合」と題する特集を6月号(No.561)で組むので、協同組合の歴史や―昨年世界的な規模で挙行された―国際協同組合年(IYC)のことなどに触れながら、分かり易く「協同組合はいかなる事業体であるか」について書いてほしい、との依頼があった。大阪保険医協同組合は「中小企業等協同組合法」に基づいて1971年4月(正式認可は翌72年1月)に設立された事業協同組合である(設立時の組合員数は307名、出資金500万円。現在の出資金13億3,460万円、事業高22億1,400万円。なお詳しくは、保険医協会事務局参与の原文夫氏が同号に寄稿された「会員の経営と生活を支えるため:保険医協会と協力共同して40余年」を参照してください)。

私は、事業協同組合の関係者、特に事務局の方々から「事業協同組合の組合員はどうも組合員意識が薄く、したがって、協同組合の成長や発展について思い巡らすことが少ないかもしれない」との声を耳にした時には、組合員と事務局員との間で意思疎通が充分に図れるシステムを構築しておくことの必要性を指摘するのであるが、それがどうもそう容易なことではないようである。しかし、容易なことではないかもしれないが、協同組合の事業の成長や運動の発展に何よりも必要なことは、協同組合のすべてのステークホルダー(利害関係者)が相互に意思疎通を図るよう努力することなのであるから、そのためのシステムの構築もまた不可欠なのである。私は、そのようなことも頭の片隅に置いて依頼原稿のタイトルを「協同組合とシチズンシップ:シチズンシップを育む事業体として」とした。私はしばしば言うのであるが、シチズンシップのコアである「自治・権利・責任・参加」は相互に補い合う特徴的性格を擁しているのであって―分かり易く言えば―例えば「個人による権利の行使が責任の履行となる」ということである。意思疎通のシステムは必ずや、「上意下達の承認受諾関係」を否定し、「参加の倫理」を自己意識化して組合員にも事務局員にも協力し協同することの意味をより明確にしてくれるのである。

このようなことを考えながら、私は、ロッチデール公正先駆者組合について、先ずその運動の思想的背景を説明し、次に「先駆者組合パラドクス」を取り上げて「近代協同組合の創始」の意味を論じてみた。そもそも1820年代初期に開始された近代協同組合運動は、ロバート・オウエンの協同社会主義イデオロギーを信奉するオウエン主義者たちが「共同の消費と共同の財産それに平等な権利」に基づく協同コミュニティの建設資金を確保し蓄積するために、産業革命の「疾風怒涛」(Sturm und Drang)の荒波に晒されていた熟練職人や熟練労働者たちによってそれまで試みられてきた、一般に「初期協同組合運動」と呼ばれる「生活防衛」のための食料品共同購入の形態を取った消費者協同組合運動、小麦粉の販売やパンの生産と販売を独占しその価格を釣り上げる地域の商人に対抗して展開された協同製粉所や協同製パン所などの生産者協同組合運動の経験をより効果的に活かし、より大規模化したものであった。ただし、オウエン主義者たちによって指導された消費者協同組合や生産者協同組合の事業はコミュニティ建設の資金を確保・蓄積することを目的としていたのであるから、協同組合の事業から得られる利益(利潤)を組合員個人の間で分配してはならないとする「利益(利潤)の不分配」の原則の厳守は当然のこととされていた。1832年4月にロンドンで開催された「第3回協同組合コングレス」は、この原則を逸脱した協同組合は「オウエン主義の世界」から排除されることを確認さえしている(協同組合コングレスは1831年5月から1835年4月の8回にわたって開催されている。詳しくは、トム・ウッドハウス/中川雄一郎『協同の選択:過去、現在、そして未来』を参照してください)。1830年代前半から50年代後半におけるイギリス協同組合運動にあっては、一般に、オウエン主義者は「協同コミュニティの建設」を目指すとみなされてきたのであるから、オウエン主義者が指導するロッチデール公正先駆者組合(以下、先駆者組合)が協同コミュニティの建設を謳ったことは、何ら不思議なことではなかったのである。

ところで、(G.D.H.コールによると)組合員28名のうち12名のオウエン主義者のイニシアティヴで1844年に創立された先駆者組合は、一般に「1844年規約」と称される「ロッチデール公正先駆者組合の規則と目的」(Laws and Objects of the Rochdale Society of Equitable Pioneers)の「第1条の前文」―この前文はその「創立趣意書」と総称されている―において、「本協同組合の目的と計画は、1人1ポンドの出資金で十分な額の資本を調達することによって、組合員の金銭的利益と社会的および家庭的な状態の改善のための制度を形成することにある。そのために次のような計画と取り決めを実行に移す」ことを謳い、1項の「食料品、衣料品などの販売のための店舗の開設」から6項の「禁酒ホテルの開設」までを記している。この1~6項のなかでより重要な項目は1項と5項である。5項はこうである。「実行可能になり次第、本協同組合は生産、分配、教育および統治の能力を備えるよう着手する。換言すれば、共同の利益で結ばれた自立的なホーム・コロニー(国内植民地)を建設し、またそのようなホーム・コロニーを建設しようとする他の協同組合を援助するよう着手する」。この5項は、協同コミュニティの建設に着手することが先駆者組合の一つの目的である、と言っているのである。まさにオウエン主義者の「面目躍如」である。であれば、先駆者組合は「利益(利潤)の不分配」の原則を厳守して、利益(利潤)を協同コミュニティの建設資金として確保し蓄積しなければならないはずであった。オウエン主義者にとって協同組合運動の目的は何よりも「共同の消費と共同の財産それに平等な権利」を基礎とする新しい社会秩序の協同コミュニティの建設であったからである。

ところが、である。先駆者組合のその同じ「1844年規約」は、第22条で「購買高(利用高)に応じた利益(利潤)の組合員への分配」(購買高配当)を明示し、さらに第21条と26条で仕入れも含めたすべての購買と販売に際しては「現金取引き」を要求したのである。要するに、先駆者組合は、第1条の前文で「組合員の金銭的利益」と「組合員の社会的および家庭的な状態の改善」を謳い、その目的のために22条で「購買高配当」を承認し、また21条と26条で「現金取引き」を要求して、「組合員の生活改善」と「協同組合経営の安定」の双方を同時に図ろうとしたのである。この「現金取引き」、すなわち、「掛買い・掛売り」の拒否は、実質的に、貧しい労働者を先駆者組合から排除することを意味した。もちろん、この「現金取引き」は先駆者組合以前の協同組合経営の失敗の経験から先駆者たちが学んだものであった。じつは、先に触れた第3回協同組合コングレスも「蓄積された資本の不分割」、すなわち、「利益(利潤)の不分配」(「協同組合に関する諸規則・5項」)と並んで「商取引における掛買い・掛売りの拒否」(同6項)を強調しているのである。オウエン主義者たちの心情と信条は「はじめに協同コミュニティ建設ありき」であって、彼らの目指すコミュニティ建設に弊害をもたらすと思われた事業と運動の方策に対しては、次のように強い調子で戒(いまし)めた。「協同組合のすべての商取引きにおいて特に不可欠であると思われることは、信用掛けで貸し借りしないことである。この重要な原則からの逸脱こそ以前の多数の協同組合が崩壊した唯一の原因であったのであり、その結果、協同組合の全般的な発展を遅らせる弊害を及ぼしたのである」、と。このように強く戒めたとはいえ、コングレスは同時に、「この重要な原則が首尾よく効力をもつようになるために、組合員の間に雇用が不足している場合には、可能な限りまた地方の事情が許す限り、組合員に何らかの雇用を用意する手段を協同組合が手懸けるよう(コングレスは)勧告する。疾病の場合、他に救済の拠り所が無いのであれば、協同組合の募金からか、あるいは組合員同士の個人的な寄付金からか、金銭的な援助がなされるだろう」との「救済の自己意識」をオウエン主義者たちに求めている。

じつは、先駆者組合の「1844年規約」の第1条にもこれと似たような「救済の自己意識」を求める項目がある。3項と4項である。

3項:失業状態にある組合員あるいはくり返しなされる賃金の引き下げに苦しんでいる組合員に仕事を与えるために、本協同組合が決定し得る品物の生産を開始する。

4項:本協同組合の組合員に対する一層の利益と安全のために、本協同組合は土地あるいは土地の不動産権を購入もしくは賃貸して、失業している組合員あるいは自らの労働に対し不当に低い報酬しか与えられていない組合員にその土地を耕作させる。

見られるように、1844年規約の3項と4項は1832年の第3回コングレスの5項と6項をある程度引き継いでいるのであって、その意味で、先駆者組合は、そのスタート時にはオウエンの協同社会主義イデオロギーを一つの重要な基本的要素としていたのである。

すぐ前で述べたように、先駆者組合は「現金取引き」の厳守を規定している第21条および26条を協同組合コングレスの「協同組合に関する諸規則」(以下、「諸規則」)の6項と同じように重要原則として位置づけたが、しかし同時にその同じ先駆者組合が、「利益(利潤)の不分配」を厳守するよう謳った「諸規則・5項」とまったく矛盾する購買高配当(第22条)を重要原則の一つとしたのである。要するに、一方で、コングレスの「諸規則」も先駆者組合の「1844年規約」も共に協同組合事業における「現金取引き」を重要原則として承認しておいて、他方で、諸規則は協同コミュニティ建設の資金を確保し蓄積するために「利益(利潤)の不分配」を承認したのに対し、1844年規約は組合員の金銭的利益と社会的、家庭的な状態の改善のために「利益(利潤)の分配」を承認したのである。「協同コミュニティの建設」という同じ目的を目指した協同組合運動における両者のこの矛盾は何を意味しているのだろうか。思うに、それは、協同組合に対する協同コミュニティの位置づけについての両者の相異が言わせていること、これである。

実際、1832年4月の第3回協同組合コングレスは、現行の経済-社会の枠組みとまったく異なる「協同コミュニティ」によって創出される平等・公正な社会秩序の基での安全な生活が組合員(メンバーシップ)に保障されるのだと主張することで「協同組合とコミュニティの一体的、一元的関係」を示唆したのに対し、先駆者組合の1844年規約は、協同組合事業が生み出す利益(利潤)が組合員の「金銭的利益」として実現され、また「社会的、家庭的な状態の改善」として実質化されるのだと主張することで「協同組合とコミュニティの相対的、多元的関係」を示唆したのである。こうなると、協同組合とコミュニティは、遅かれ早かれ多元的な関係の下に置かれ、両者の関係に多様な要素が入り込むことになり、時としてそれらの要素が対立するようにもなる(協同組合アイデンティティとコミュニティ・アイデンティティの対立のように)。こうして先駆者組合は、協同組合とコミュニティとの関係を相対化し、多元化することによって近代的協同組合の創始になることができたのである。10年後の1854年の先駆者組合の「規約と目的」(1854年規約)からは―G.D.H.コールが強調したように―「コミュニティ建設という高邁な理想」、すなわち、「協同組合とコミュニティの一体的、一元的関係」は消え失せてしまっていたのである。では、左手(ゆんで)に「オウエンの協同社会主義イデオロギー」を掲げ、右手(やて)に「利益(利潤)の分配」を掲げた1844年規約の基で「協同コミュニティの建設」を謳った先駆者たちのパラドクスは、果たして、如何なるLogosであったのか。「言葉」なのか、「意味(こころ)(思い)」なのか、「力」なのか、それとも「行為(業)」なのか。

私の言う「先駆者組合パラドクス」とはそういうことなのである。しかし、私がここで強調したかったことは、この「先駆者組合パラドクス」が先駆者組合を「近代協同組合の創始」にせしめたのだということである。だが私は、先駆者組合を近代協同組合の創始にせしめた「先駆者組合パラドクス」の「説明の説明」にいささか苦労したのである。そこで私は「説明の説明」を次のように記した。「要するに、当時(飢餓の1840年代)の歴史的文脈の下で彼ら(先駆者たち)以前のオウエン主義の協同組合運動が厳守してきたルールを先駆者たちがいともた易く破ったのは、彼らには『先駆者組合パラドクス』は『絶対的矛盾(パラドクス)』ではない、とそう思えたからである。彼らが置かれていた歴史的コンテクストの下における彼ら自身の『相互救済の意識』は、彼らが『金銭的利益』と『社会的および家庭的な状態の改善』の双方を現実化させ、実質化させることによってはじめて自己意識化され自覚されるのであるから、彼らはその双方の実現を実行しただけなのである。ゲーテが『ファウスト』で述べているように、『はじめに行為ありき』であって、(ヨハネによる)福音書の言う『はじめに言葉ありき』ではなかったのである。これも、先駆者たちの現実を知る自己意識が与えた『歴史的な仕事』であった、と言うべきなのである」。

さて、このように書いて「先駆者組合パラドクス」の「説明の説明」をした気になったのであるが、送付されてきた『大阪保険医雑誌』(No.561)の私の文章に目を通していくうちに、どうにも「はじめに行為ありき」というファウストの言葉が気になりだした。新約聖書の「ヨハネによる福音書」の「はじめに言葉ありき」は「言葉は神と共にあった。言葉は神であった」、と言うのであるから、言葉は神であり、したがって、キリスト教徒の個人はそれに従わなければならないだろうが、私はキリスト教徒ではないので、「聖書」―特に「新約聖書」―には関心と興味があるものの、ファウストの「はじめに行為ありき」に「先駆者組合パラドクス」の「説明の説明」のための救いを求めたい気になったのである。

ゲーテの『ファウスト』は日本でもいくつかの出版社から翻訳されているが、岩波文庫の(学生時代に私が使用した独和辞典の著者である)相良守峯訳『ファウスト』は第1刷発行が1958年3月で、最近私が手にしたそれはなんと2013年5月で第74刷発行である。超長寿の名作・名訳なのである。

私が必要としている『ファウスト』は第一部の「書斎(一)」のほんの一部分である。ファウストが語るその箇所を記しておくと(pp.85-86)、次のようである。

われわれは超地上的なものを尊重することを学び、また天の啓示に憧れるが、その啓示は、新約聖書に示されているものほど、貴く美しく輝いているものは外にはない。
あの原典をひもといて、誠実な気持ちでひとつ、神聖な原文を好きなドイツ語に訳してみたくなった。
こう書いてある、「太初(はじめ)に言葉ありき。」
もうこれでおれは閊(つか)える。誰かおれを助けて先へ進ませてくれぬか。
言葉というものを、おれはそう高く尊重することはできぬ。
おれが正しく霊の光に照らされているなら、これと違った風に訳さなくてはなるまい。
こう書いてみる、「太初に意味(こころ)ありき。」(「意味」の代わりに「思い」という他の訳もある)
軽率に筆をすべらせぬよう、第一句を慎重に考えなければならぬ。
一切のものを創り成すのは、はたして意味(こころ)であろうか。
こう書いてあるべきだ、「太初に力ありき。」
ところが、おれがこう書き記しているうちに、早くもこれでは物足りないと警告するものがある。
霊の助けだ。おれは咄嗟(とっさ)に思いついて、確信をもってこう書く、「太初に行為(業)ありき。」(「業」の代わりに「行為」とする訳が一般的になっているので、私も「はじめに行為ありき」としている)

ドイツ人であるゲーテは、この「言葉」に、すなわち、ラテン語のLogos(「言葉」の意)に拘(こだわ)ったようである。聖書の原典はラテン語で書かれていたので、Logosはそれこそもっと広義の意味を持っているはずだ、と。英語の聖書ではLogosは「神の言葉」であり、したがって、「三位一体」の第二位であるキリスト(神・<神の子>キリスト・聖霊)を意味するので、「はじめに言葉ありき」は”In the beginning was the Word”,となる。この「神の言葉」は絶対的真理を意味する言葉である(言葉は神と共にあり、また言葉は神である; and the Word was with God, and the Word was God)。しかし、ゲーテは、Logosに「言葉や意味」以外のもっと広い概念、例えば理性、しかも神の創造的理性、あるいは精神を持たせようと考えたのではないか。このことは私の勝手な推理なのでどうでもよいのであるが、ゲーテが「言葉」ではなく、「行為」”Im Anfang war die Tat.” と書き記したのは、人間は、その直面する矛盾や困難に立ち向かい―結果的に、したがって、歴史的に見ると―それらの矛盾や困難を克服しようと努力するプロセスにおいて、それらの矛盾や困難の背後で蠢(うごめ)いているさまざまな物事の本質を照らしだす、これが人間のなす「業」であり「行為」であることを現在と未来の人間同胞に示したかったからではないか、と私は理解したい。

先駆者組合における「はじめに行為ありき」の「説明の説明」はゲーテというかファウストの「力」を借りての説明であったが、私としてはもう少しファウストの「力」と、今度はメフィストフェレスの「力」を借りて、先駆者組合の「説明の説明」について簡単に触れておこう。ただし、これも、もちろん、私の勝手な推理である。

ファウストが確信をもって「はじめに行為ありき」とするや、むく犬がメフィストフェレスに変身する。その後のファウストとメフィストの会話が大変面白い。そこで随時、協同組合に関わる私のno goodな推理を[  ]で記しておきたくなった(下線部分)。

ファウスト:名はなんというのかね。[ロッチデール公正先駆者組合]

メフィスト:これはつまらんお尋ねですね。言葉[Logos]というものをあれほど軽んじ、一切の見せかけを遠く踏みこえて、本質の深みへ迫ろうとなさる先生としては。[われわれは「先駆者組合パラドクス」を追求するのだ]

ファウスト:だが君たちの場合は名さえきけば、たいてい本質が読めるものだ。蠅(はえ)の神とか破壊者とか、嘘つきなどといえば、それではっきりし過ぎるくらい分るじゃないか。[われわれの場合は「高邁な理想の消失」である]  まあよい。では君は何者だ。[近代協同組合の創始]

メフィスト:常に悪を欲して、しかも常に善を成す、あの力[Logos]の一部分です。[現金取引きを原則化してそれを厳守し、一方で協同組合を必要とする貧しき人びとを排除し、他方で購買高配当によって協同組合経営の安定と組合員の金銭的利益とを実現する]

ファウスト:その謎のような言葉の意味(こころ)[Logos]は。[近代協同組合の原罪]

メフィスト:私は常に否定するところの霊なんです。[協同組合は、それ自身のうちに固有の否定を、すなわち、矛盾を生み出すが、しかしまた、その矛盾を否定することによって新たな理念や目標を創り出し、かくして、協同組合の発展が生み出される] それも当然のことです。なぜといって、一切の生じ来るものは、滅びるだけの値打ちのものなんです。それくらいならいっそ生じてこない方がよいわけです。そこであなた方が罪だとか破壊だとか、要するに悪と呼んでおられるものは、すべて私の本来の領分なんです。

ファウスト:君は自分で一部分と称しながら、全体としてここに立っているじゃないか。[具体的存在としての協同組合は、動物や植物がそうであるように、自己の各部分全体が成長することによって発展する]

メフィスト:私はただ掛値(かけね)のない真実を申し上げたんです。人間という馬鹿げた小宇宙は、通常自分を全体だと思いこんでいますがね―[先駆者組合もオウエン主義あるいはオウエン派協同社会主義のコンセプトの基で育ち、その一部を否定することによって近代協同組合の創始たる栄誉を得た] 私などは、初めは一切であったところの部分の、そのまた部分です。光を生んだ闇の一部なんです。[ヨハネによる福音書は言う:言葉には命があり、この命は人びとの光であった。光は闇のなかに輝いており、そして闇は光に勝たなかった。しかし―とゲーテは言う―じつは闇こそが光を生むのであるから、光が闇のなかで輝くためには、先駆者組合を創始とする近代協同組合はその原罪を常に克服しようと努力しなければならない。協同組合は「正気の島」になるよう努力しなければならない]  高慢ちきな光は、今や母なる闇を相手に、古い地位と空間を争っていますが、うまくゆきやしません。どんなにもがいたって、光は物体にくっついたまま離れないからです。光は物体から流れ出て、物体を美しく見せますが、しかし物体は光の進路をさえぎるんです。だからたぶん遠からずして光は、物体と共に滅びるでしょう。

ファウスト:それで君のえらい任務というものは分った。君はしかし大規模に破滅させるわけにはいかないので、こきざみにやり出しているというわけだろう。

メフィスト:それでも無論たいしたことはできんですよ。無に対立している或る物ですね、つまりこの気のきかない世界というやつですね、こいつは、私がこれまでやってみたところでは、なんとも手に負えないやつなんです。津波、暴風、地震、火事、いろいろやってみますが、結局、海も陸も元のままに平然たるものです。それにあの忌々(いまいま)しいやつ、動物や人間のやからときたら、どうにも手のつけようがありませんや。これまでもどれほど葬(ほうむ)ってやったでしょう、それでも新鮮溌剌(はつらつ)たる血が依然として循環するのです。
こういう工合(ぐあい)だからわれわれも気が狂いそうになるんですよ。空気から、水から、地面から、千万の芽が萌え出してくる、乾いた所からも湿った所からも暖かい所からも寒い所からもです。[それでも今では、協同組合は世界のどの地域のどの国にも、すなわち、東西ヨーロッパ、南北アメリカ、アジア、アフリカ、オセアニアの諸国に、それに―忘れていたが―ロシアとかつてソヴィエト連邦を構成していたいくつかの独立した国々に多様な協同組合が設立されている]
あの火というやつを私が保留しておかなかったら、これぞという特別な武器が何もなくなるところです。[協同組合人は、オウエン主義イデオロギーを歴史的文脈の下で吟味することを通じて、協同組合の新たな理念や目標を思考するのだ]

ファウスト:そこで君は永遠に休むことなく、恵みゆたかに創造をつづける威力[この力、すなわち、Logosはまさに矛盾を止揚(アウフヘーベン)してより高次の統一を創り出すための「行為」である]に対し、冷たい悪魔のこぶしを振りあげているわけだが、その陰険に握りかためたこぶしも無駄なことだ。
混沌の生み出した奇怪な息子よ。何かほかの仕事をさがす方がよさそうだぞ。

かくして、私はこのページを閉じることにする。

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