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イタリアの共済組合(1861-1922)

原著:ルイジ・トマシーニ 訳:主任研究員 石塚秀雄

掲載日2003年01月14日


イタリアの共済組合歴史における組織、経済、政策

イタリアの歴史家は長い間、共済組合の政策に関心を持ってきた。より正確には共済組合の育成期準備期、労働者運動組織の「成熟」段階の序章について研究を行なってきた。 いくつかの研究成果があったが、相互扶助団体のいくつかの側面、とりわけ経済的、社会的側面については言及しないできた。最近になって共済組合の社会手製についての歴史研究が、なされてきたが、イタリアではブルジョア階級に結びついたものとされたので、このことはより大きな問題を提起することになった。また、イタリアでの政治団体は強力に共済組合運動の発展に関与しており、共済組合は歴史的初期の段階から政治につながっていたことが明らかになっている。

1848年の革命の時にイタリアにあった各国家は自由主義的憲法を作ることになった。共済組合の多くはまだ弱体であった。それは結社の自由が一般的には規制されていたからである。最近の研究によれば、団体の相互扶助の性格は軽視されていて1800年から1850年にかけて僅かに80の共済組合が作られたにすぎない。

共済組合の発展の初期段階は、1848年から1859年までで、国家は自由主義を維持していた。サルジニア王国(ピエモンテ、リグリエ、アオステ谷、サルジニア)ではこの十年で共済組合は16から132に増えた。これは自由主義的ブルジョアの主導と支援によるものである。ブルジョアたちはこの穏健な試みに対して支援した。これはまだ地方に残っていた相互扶助を基礎にしていた。

全国レベルでは、新しい王国(レグネ1861)で決定的な変化した。国家からの直接的な介入なしに、自由主義派の支配階級は、相互扶助組織を自分達に政治的社会的組織の中に基本的な道具のひとつにしようとした。さらに社会保障や労働協約における非宗教的な原則を優先して、教会と関連した組織や特権的な団体であったことから離れようとした。 新しく王国が誕生した後の1862年に、共済組合は443団体、組合員は121,635人であった。この内の40%以上が、前サルジニア王国にあった。しかし、次第に、イタリア北部(ロンバルジア、エミリア)やトスカナ地方にも種が蒔かれた。

共済組合は元々「リソルジメント」の発展と結びついていた。その後次第に発展拡大して200年に間にイタリアの経済社会条件に影響を与えた。

イタリア統一から第一次世界大戦までの共済組合の発展

共済組合数と組合員数は、20世紀初頭まで確実に増加した。とりわけ1880年は特筆された。共済組合の発展に伴い、共済組合(および関連組織)についての法人制度、労働運動の登場、社会主義者による共済組合などについての議論も活発化した。

共済組合の資産は組合員数の増加に比例して増加した。共済組合制度は経済計画の発展に組みいれられた。それは弱者のピラミッドであった。すなわち、現実的にはその発展は微々たるものであった。確かに、共済組合は1862年の443から1904年の6,347に増加した。しかし、一共済組合あたりの組合員平均数は191人から146人と減少した。共済組合の平均資産は、かろうじて二倍になった。組合員当たりの資産額は4倍になった(18リラから85リラ)。共済組合は規模が小さいが、資産は倍増した。

現実には目立たないが、その資本は全体として75,000リラと馬鹿にならない額となった。これは20世紀始めのイタリアの各種団体(信用組合、貯蓄金庫、農村金庫、郵便貯金、信徒貯金など)の貯蓄高の2.5%を占めた。

投資や組合員の貯蓄再配分について経済計画上のいろいろな実行手段は次第に減っていった。証券投資や企業活動や食堂、パン屋、社会的薬局などの協同組合活動への投資は減少した。一部の共済組合は、不利な状況の中で、委託金融の戦いを行った。共済組合が多様な活動をしたのは定款上の問題があったがまた地域のそれぞれの事情もあった。そこでは経営陣主導の下に、発展を目指そうとしていた。

第一に、共済組合の収入構成は著しく変化した。名誉組合員の出資は、とりわけ発起人たちの出資は、年々大きく減少した。反対に、資産出資が増加した。それにより協同組合や企業の資産に対する利子だけでなく、経営方式も多様化した。逆に、出費構造も実質上同じ水準に達した。組合員に対する補助金は、当初よりも比率は低くなったけれども増加した。

この事実はなにを意味するのか。この種の共済組合が普及することを示すものであった。もし共済組合の資本配当が変わらず、非常に小規模化して数が増えたということであるならば、「より軽い」発展モデルによる共済組合が疾病給付を引き下げることになる。

組織構造:官僚主義

これまで混合組織については、「一般的組織」として取り扱ってきたにすぎない。すなわち、実際、地域組織と専門組織の区分を労働者の集まり型、地域での行動様式の違いで区分しなければならない。共済組合は企業とみなされまたは、鉄道員団体のように地域的・全国的社会的協同組合と見なされている。

1863年に、混合型共済組合は(当時は「積み立て型」とか「一般型」とか呼ばれていた)は267あり、組合員数は85,495名であった。一方、職能別共済組合は115あり、組合員数は26,113名(23%)であった。1885年に、これらの共済組合の一部は地域混合型になったが、知る限りでは共済組合の組合員の66パーセントで、地域共済組合に属し、17パーセントは職能別共済組合に属していた。

地域混合型モデルはどのようなものか。共済組合の官僚主義的な組織は実際には存在しなかった。この点で職員数の統計がないので、各共済組合は、おそらく異なる処理をしている。組合員負担金の多くは寄付であり、特定の報酬が業務担当者、会計担当者に支払われる。集金人はほとんど報酬を受け取っていない。

社会統合としての機能

制限されてはいるが、保険機能の定期的継続性は複雑な業務と社会化と結びついた。分析的に再現するのは難しいが、共済組合の資料の中には見いだせない。一方、共済組合発展に関する資料は見いだせる。

共済組合の制度外の活動については、公式統計が組合員教育で示されている。共済主義のブルジョア推進者たちにより基礎が作られた教育活動は、直接的に官庁組織によって支援されていた。夜間コースと日曜コースがあった。費用も多様で、社会小図書館も設立された。さらに、リクレーション関係では教育的遠足が、「リソルジメント」運動の一環として取り組まれた。

また、社会化した宗教儀式が、しばしば開催された。頻繁に、共済組合の設立記念日が開かれた。お祭りや市民祭や愛国祭が開催された。あらゆる分野で共済組合の旗がはためいた。社会的お祭り、クリスマスイブ、演劇祭、行進などで。一部の共済組合はグルメ団体になり会員資格を厳しくした。規則を最低限にして、純粋に政治的な集まりとなったものである。最近研究されている。

共済組合が行う非営利活動の重要性は、制度的な側面でも現れている。なによりも、協同組合が取り上げられる。食堂やカフェの経営で実体的な収入があった。この事業は同時に社会化の基本ルートであった。

リクレーション非営利組織については、合唱団、音楽家、俳優などが共済組合を作り、安定性を追求した。レクレーショングループは相互扶助目的で作ったものも共済組合へと発展した。

最後に、左翼と結びついて発展したグループはより大きな資金源を持ち、共済組合のくは建物を取得できた。その地方組織も十分大きく、「人民の家」へと次第に拡大していった。人民の家は共済組合の社会化すなわち、共済組合の内部的にも外部的にも活動を促進する役割を果たした。

社会的基盤

共済組合の発展は、なによりもその社会的基盤の著しい拡大に基づいた。盛んになったのは20世紀初頭である。共済組合の組合員は100万人になり、1881年当時のイタリアの人口の14歳以上は1900万人であったので、少なからぬ数字であった。イタリアの人口の半分以上は農村人口であった。農村には共済組合はほとんど浸透しなかった。さらに共済組合運動はもっぱら男性中心であった。また政党や労働組合もおなじような状況であった。

同じように、社会的基盤の発展は19世紀後半を通じて一般的な進歩すなわち規則化によって促進された。一方でイタリアの共済組合の地域的発展の不均等も特徴的であった。イタリア統一の直後から各地方の発展に格差が出始めた。経済的社会的な側面での「南部問題」が生まれた。南部の統合問題は1860年以降から発生した。南部地方には統一後にもまだ山賊が出没した。

共済組合運動も南部では遅れてバラバラであった。1862年には共済組合の84%が北部やトスカナ地方に所在した。1904年にはその比率77%にまで下がった。しかし不均衡であることには変わりなかった。

共済組合の社会的基盤の経済的側面についての統計はほとんどない。これは統計が不十分という理由ではなくて、現状分析がむずかしいからである。社会的基盤が多様で、時代によってもまちまちであることによる。職能型共済組合は、労働者だけで組織されているわけではなかった。実際には企業内共済組合を除くならば、共済組合はより広い人々を含んでいた。

ある調査では一般共済組合および地域共済組合は、すなわち労働者共済組合以外のものをそう呼んでいたのだが、おそらく多様な社会基盤に基づき、非労働者が多く入っていた。先進国の中では相対的に遅れた発展をイタリアはした。それは都市のネットワークが昔からあり、職人や商業労働者の幅広い基盤があったので社会が多様化していたのである。

同様に下層労働者がイタリアの都市にはたくさんいた。彼らは共済組合の組合員にはならなかった。彼らは共済組合や団体の維持に必要な出資金を払うことができなかった。このことが加入のための障害になった。大都市の貧民地域では連帯のネットワークが別に作られた。それは共済組合と似たようなものではあった。ただし明確な組織的な形態をとることがなかった。従って、それらは一時的なインフォーマルな組織であった。これらの氏組織は、登録をして、出資金のようなものを支払うことで、身体障害と認められたときに給付金が受けられた。これは労働組合や政党のような目的を含みつつ、共済組合との中間にあるような連帯的な過渡的な組織であった。

安定した適切な出資金を組合員が共済組合に支払うことによって組織基盤ができることはいつの時期にも基本的には変わらない。イタリアでは共済組合の大部分が組織的に「緩やかな」ものであった。農村では全共済組合のわずか3%しか稼働していなかった。それにはいくつかの理由がある。農民が極貧であったこと。構造化できないような別の相互扶助形態が農村にあったこと。マラリヤやペストなどの疫病や災害が農村で蔓延しやすかったことなどが共済組合の発展を阻害した。

結論

イタリアでは、共済組合の発展に関して政治的な関与が強かった。共済組合は市民社会の再編過程で重要な役割を果たした。それは社会が教会離れすることであり、リソルジメントの時期における大衆の「国民化」であった。世俗化と国民化が量的に拡大した。共済組合も新しい社会制度と政治的自由主義によって組織化されていった。

大衆レベルでとりわけ都市住民の間で共済組合は中間組織的な役割を果たした。さらには新しい自由国家の指導階級の中にも共済組合モデルが広がった。地域型共済組合と職能型共済組合として普及した。共済組合は相互的な活動、制度を超えた活動、連帯活動を貴基盤とした。相互扶助に接ぎ木された活動ばかりでなく、相互的な制度と自主的な組織として活動した。地域の労働者団体としては大衆階層の統合化の役割を果たしたし、職人階層や中間層を集めた共済組合もできた。さらに農村の貧困層を集めたものもあった。

地域レベルではイタリアの共済主義は、社会分裂の再構築を目指したものであった。人々の社会性の再統合に非常に役割を果たした。

社会性という概念は、共済組合に限ったものではない。公的で制度的な社会保障組織にとっても具体的に要請されることである。

しかしながら相互扶助の経済的制度的な在り方に関しては保険機能も重要である。1848年以後の労働運動の内部的な概念として相互扶助主義の中に続いている階級的な連帯組織と観点とは共済組合は異なる側面がある。

とりわけイタリアでは統一後に社会の多様化が進んだ。共済組合は社会の周辺にいる貧民層から職人階級、中間階級までをそれぞれに統合する機能を持ち、イタリアの社会変化に影響を与える組織として今日まで来ている。

以上

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